特集●次の時代 次の思考 Ⅲ

征韓論の戯画(カリカチュア)としての「ヘイトスピーチ」

なぜ過剰な朝日新聞批判がおきるのか

聖学院大学学長 姜 尚中さんに聞く

聞き手 本誌編集委員・黒田 貴史

なぜ、「スピーチ」とよばれるのか

――ヘイトスピーチを公然と叫ぶ「在特会」などの集団が闊歩しています。こうした動きについてどのようにお考えでしょうか。

姜尚中まずヘイトスピーチというカタカナ語がメディアを通じて流布するようになったのか、若干気になります。なぜメディアがこのことばを使うのか。ヘイトという英単語の意味がすぐにわかる人は日本にどれだけいるでしょうか。高齢者にはむずかしいのではないか。高校生はあるていど理解しているかもしれませんが、中学生にはわかるだろうか。

ヘイトよりもハラスメントのほうが日本ではより定着しているのではないでしょうか。その意味で、わたしはハラスメントということばのほうが事態をよく表現していると思います。

「ヘイトスピーチ」はスピーチなので言論である。言論である以上、基本的には表現・言論の自由を重んじるべきだという結論が導かれてきます。したがってこの問題にかんしてなんらかの法的規制を加えるというのは問題で、むしろヘイトスピーチを市民社会の力によって押し戻すべきだという議論に行きつくのではないか。

しかし、もう一方で、地方議会で女性議員に対するヤジが飛んだ。男女共同参画について、女性議員が質問に立ったときに、「結婚をしているのか」「どうして子どもを生まないのか」などというヤジが飛ぶと、これはハラスメントだという。新大久保や鶴橋などの韓国人が多く集まっているところに出かけて「ヘイトスピーチ」を声高に叫んでいる集団があって、それをハラスメントだとして問題にすることはない。

わたしは、これはハラスメントだと思っています。スピーチだということで、言論の自由とリンクされてしまう。こうした集団が叫んで行動している場所には小さな子どもやお年寄りも生活しています。たいへんな恐怖を感じているにちがいありません。その意味でハラスメントと認定すべきではないでしょうか。

なぜ「ヘイトスピーチ」ということばで定着させてしまったのか、ハラスメントと呼んでいれば、なんらかのかたちでこうした行為をやめさせなければならないという共通理解が進んだのではないでしょうか。セクシュアルハラスメント、パワーハラスメント、アカデミックハラスメントなどはすべて規制される対象になっていて、スピーチとはちがう対処が求められています。ことばの問題ですが、じつは本質的な問題ではないかと思います。

いわゆるヘイトスピーチをしている側も、これは表現の自由であるといっています。したがってこれを規制することはいかがなものかという。表現の自由は市民社会のなかでももっとも重んじられる権利です。そこでとても民主的な憲法学者でもこの問題にかんして消極的な態度を示してしまいます。しかし、地方議会での女性議員に対するヤジを表現の自由の問題だといった政治家はいるでしょうか。

ことばの設定のしかたのなかにマイノリティとマジョリティとで無意識に働くちがいがあるのかもしれません。マイノリティに向けられる場合には「ヘイトスピーチ」と呼び、しかしマジョリティのなかでおこなわれた「女性差別スピーチ」はハラスメントと呼ばれる。そういう分け方が働いているのではないか。もし、これが肢体不自由の人に対しておこなわれた場合にも同じ日本人どうしと思われる場合には「障害者差別スピーチ」にはならず、ハラスメントといわれるでしょう。

この微妙なちがいに、じつは在日韓国・朝鮮人と日本人とのあいだの微妙な皮膜一枚の差異があるのではないか。ですから在日の問題になってくると、なにかしらことばにも表せない微妙な差異がメディアのなかにも働いているのではないか。

もちろん、アメリカでは、それを「ヘイトスピーチ」といっています。しかし、アメリカでは、人種差別を公然と主張するということに対しては、法律で取り締まりの対象になります。「ヘイトスピーチ」をどう考えるかとよく聞かれますが、それでは「ヘイトスピーチ」とはなにか、もういちど振り返って考えてみていただきたいと思います。いまの市民社会のなかでのとりあげ方にひとつの問題があると思っています。

――皮膜一枚とご指摘がありましたが、じつはそれは大きなちがいにつながるのではありませんか。

そこが問題です。たとえば、アメリカ人にむけて「ヤンキー・ゴー・ホーム」と叫ぶ。戦前なら「鬼畜米英」といいました。これはアメリカ人に向けられた「ヘイトスピーチ」です。在特会などは、在日韓国・朝鮮人が特権を享受しているからこの人たちに対してそれに対する異議申し立てを表現で示すという。しかし戦後日本で最大の特権を享受しているのは在日アメリカ人の軍人です。しかし、アメリカ人が特権を享受しているということに対して「ヘイトスピーチ」を叫ばない。

歴史の消却は79年にはじまった

――橋下大阪市長と在特会会長との話し合いをテレビで放映していました。あれをみていると三つの大きな問題があるとおもいました。同じレベルでやりあっていること、在特会の発言を電波に乗せてしまったこと、後日、橋下が在特会の主張に乗って「特別永住」が特権であるといいだしたことではないかと思います。

在日韓国・朝鮮人にたいして特別永住という一般外国人とはちがう永住が認められている、それが特権であり問題だという。それは歴史を完全に消却してしまうことです。なぜ、在日韓国・朝鮮人が日本にいるのか。敗戦直後には150-200万の朝鮮半島出身者がいて、やがてその人びとが日本に定住することになったときに「みなし規定」をせざるをえなかったのです。敗戦前の日本では植民地朝鮮の人びとは「日本人」だったからです。そういう事実を前提に日本の出入国管理法が作られてきた。しかし、在特会などはそういう過程をぜんぶ飛ばしてしまいます。

いまおきていることの一つの側面は歴史の消却です。なぜそうなのか。わたしは一つの仮説をたてています。そうした事態が進行しはじめたのは1979年(元号法が成立した)ころではないか。79年から10年後には昭和が終わり、冷戦が崩壊しました。戦後民主主義の実態は79年ころにあるていど賞味期限が終わっていたのではないかと考えられる。その大きな節目が89年の昭和天皇の野辺送りでした。

そこで昭和を日本の国民がどうとらえるのか。そこには必然的に周辺のアジア諸国との関係をどうとらえるか、在日韓国・朝鮮人との関係をどうとらえるのかという問題がひかえています。けっきょくこのときの国民的合意は、「暗い昭和もあったけれども、明るい昭和もあった」というものでした。そこで、いま、昭和が終わろうとするときに昭和天皇をどう評価するか、という点で思考を深めることができなかったのではないか。

79年ころから日本の全体的な富裕化が進行し、戦後という時代を戦争体験からどう記憶にとどめて社会で共有していくのかという課題が現れてきました。そのひとつの担保として憲法があり、いくつかの制度的支えがあり、記憶としてもまだ生きていた時代。しかし、その記憶も体験者が亡くなっていくなかで変質していったのではないでしょうか。その記憶のなかで朝鮮半島という植民地や中国との関係について戦前からのイメージや表象が意識下にずうっと眠っていた。表面的にはあたかもそうした問題がないかのようにしていた。大島渚のドキュメンタリー「忘れられた皇軍」のような作品はありますが、ふだんは表層には出てこない。そうやって朝鮮半島や在日の問題はときどきとりあげられる問題だった。意識下にどうしても抑圧しておきたい、しかし、間欠泉のようにときどき飛びだす、そうした問題だったわけです。

意識下に眠らせていたものが70年代終わりから変化をはじめます。韓国では79年に軍事政権のトップだった朴正熙大統領が殺され、紆余曲折を経ながらも86年に民主化され、88年にオリンピックがあった。中国も89年の天安門事件はありますが、中国型近代化に向かっています。それ以後の歴史は日本の富裕化がだんだん後退、下降線をたどっていくなかで、無意識のなかに抑圧されていた韓国・朝鮮や他のアジアの国との関係が同時代史として語られていくようになりました。韓国が民主化されたあと、韓国とは経済的に相互依存関係であり、ある種の競合関係ができていた。そういうなかで北朝鮮の拉致問題が明らかになりました。

新しい装いの「征韓論」

2000年代になってけっきょく、日本のナショナル・プライドが大幅に低下しています。東日本大震災はいわばそれに追い打ちをかけるようなことになりました。こういう事態のなかでナショナリズムが強くなってきた。いっぽうで、日本社会で韓国映画・ドラマの流行や韓国旅行者の増大などによってコリアン的なものにたいする認知が進むにつれて、日本にいる在日韓国・朝鮮人は同時代的存在であって、記憶のなかで抑圧していたふれたくない存在ではなくなってきた。他方で戦争体験や戦前の植民地体験はどんどん薄れている。証言としてもなくなりつつあり、唯一記憶として残されています。しかし、その記憶はいくらでも書きかえが可能でもあるのです。

こうした大きな歴史の流れのなかで「ヘイトスピーチが」登場したと考えています。これはある意味で新しい装いをもった「征韓論」ではないかと思っています。

日本が明治維新に当たる時代に朝鮮王朝のなかでは閔妃(第26代朝鮮王高宗の妻)や大院君(高宗の父)らの強硬な対日政策がありました。そのような朝鮮王朝の対日政策が「無礼」だとして日本では征韓論が盛んになっていきました。はじめは西郷隆盛らいわゆる明治の元勲の政治家たちに強い影響力をもっていました。ほぼ平行した時期に日本では自由民権運動がおきましたが、運動が挫折すると、民間も征韓論に雪崩をうっていき、朝鮮半島さらには大陸に向けた進出が拡大していく。

百年以上まえの歴史ですが、いまその時代を想起せざるをえません。当時、民間から朝鮮王朝は無礼であるという意識が生まれているし、そうした意識を煽る新聞などのポンチ絵などが残っています。いまのヘイトスピーチが征韓論の戯画(カリカチュア]にも思えてきます。一部メディアにも往時と同じ傾向を感じます。わたしは朴槿恵大統領については批判的にとらえています。しかし、いま日本のメディアの一部で韓国にたいする執拗なバッシングがおこなわれていることも問題です。もちろん韓国の右派系新聞による日本についての記事もたいへん問題です。

なぜ、明治国家ができあがったときに征韓論が浸透したのか。それは当時の清国と朝鮮との関係にかかわるものであったともいえます。現在も米中との関係のなかでの韓国が自らの立ち位置をどこにおくかによって力点が動きます。現在は国際政治の大きな力学のなかで日本以上に対中関係を重視する方向に傾いている。それが強くなればなるほど、日本による韓国にたいする韓国バッシングという問題がおきます。

――韓国が中国に接近すればするほど、日本が韓国たたきをするという構図ですか?

そうです。現在があの時代の日清関係、大韓帝国との関係にややアナロジカルに映ります。大韓帝国はロシアとの関係も重視していましたが、中国にたいしては宗主国として特別な関係をもっていました。それが日清戦争の原因にもなりました。

日本のナショナリズムは、つねに朝鮮半島との関係で触発されるものといっていい。もちろん対米関係のなかからでてくるナショナリズムがないわけではありません。しかし、「ヘイトスピーチ」とよばれるものがたとえば中華街に向かって大規模な行動をおこすということがいまのところおきていません。

――中国人にむけられたスローガンもあるようですが、実際の行動は新大久保や鶴橋でなされています。

それは、逆にこの20年におよぶコリアン的なものの日本社会への浸透が表舞台にでてきたことにたいする反応ともいえるのかもしれません。70年代終わり以前、わたしたちが幼かったころの朝鮮半島とのかかわり、学生時代のかかわりとも大きくちがってきている。ただたんに在日対「ヘイトスピーチ」を叫ぶ人たちとの関係だけではなく、日中韓の関係や歴史軸の地政学的な関係の変化をみておく必要があります。こうした行動に参加している人たちの階層的な問題があるかもしれませんが、さほど貧困層や非正規雇用の人たちだけがこの集団に集まっているわけではないようです。

――73年の金大中事件がおきたときに報道各社にたいして警視庁が記者クラブで事件発生を知らせました。そのときに居並ぶマスコミ各社の記者たちのなかで金大中がどういう人物か知っていたのはただ一人だけだったそうです。駆け出しの記者でしたが、たまたま大学で朝鮮半島のことを学んでいたからです。ほかの記者たちは、中国の人ではないかといっていたそうです。いま、その方は征韓論などの研究をしていらっしゃいます。

79年以前、朝鮮半島は日本にとっては意識下に封じこめられ、社会の表層に出てこない話題だったのです。もちろん、韓国では李承晩体制があり、その後の朴正煕の軍事クーデターがあって厳しい統制がひかれていました。しかし、そのなかでも73年以降は民主化運動が展開されていました。こんなに近くて、過去にも重要な関係をもっていた国が一挙に遮断された状態が冷戦のなかでつくられました。冷戦が終わるのは89年ですが、その10年ほどまえから確実にその終わりははじまりつつありました。気がついてみたときに国レベルで経済などにある種の競合関係ができていた。これは敗戦から79年までには考えられない事態といっていいものでした。雁行(がんこう)型経済発展とよばれる状態、日本が先行して経済発展していくという状態から大きく変化していきます。こういうなかで過去の記憶が異なるかたちで継承されてきたのではないか。

いま進行しているヘイトスピーチは意外に根が深い問題であって、しかもそれを見るときに時間軸と空間軸をあわせもっていまわれわれがどこにいるのかをみないと、その本質がよくわからないのではないでしょうか。

朝日新聞批判は「マッカーシズム」の再来

――そこで朝日新聞の問題です。原発報道問題が一方にあるとはいえ、より大きな問題は慰安婦報道ではないかと思います。しかも誤報のことよりもそもそもの問題にたいする姿勢を問題視されているのではないか。いまの日本、歴史的な日本の根幹に触れたことにたいする反発と理解するべきだと思います。

ある種の歴史修正主義は戦後からずっとつづいていたと思います。1945年8月に体制が変わった、価値観が変わったといわれますが、連続性が根強く残ってしまったと評価せざるをえません。軍人、軍閥、内務省が解体されたとしても、経済のテクノクラートが重要な位置に残ったまま延命しました。だからこそ、高度成長へすみやかに移行できた面もあります。そういう過程であの戦争はやはり侵略戦争ではないといい、東京裁判史観と彼らがよぶものにたいする違和感をずっと持ちつづけていた。しかし、A級戦犯の疑いをもたれた人が表に立ちにくかった。そこには日米関係の重しがありました。

70年代終わりころまで、中国では内戦から共産党による支配、文革などの激動が絶え間なくつづいていました。それらがほぼ落ちついたのが70年代後半です。他方ではベトナム戦争が70年代半ばまでつづいていました。その前に朝鮮半島では朝鮮戦争があり、南北に分断されました。そう考えると日本の近隣諸国で平和的に国家をなしていたところはひとつもなかったといっていい。こういうなかで日本だけ(沖縄など一部の地域をのぞいて)が日米安保のなかで国内的には平和主義をかかげて経済的に驚くべき黄金といっていい30年間を過ごしました。

そのなかで歴史修正主義が浸透していきました。それはごく一部の際物的な考えの人たちのものではなく、だんだんと広く浸透していった。ただ、それには重しがありました。たとえば、与党だった自民党のなかにも重しがありました。顕著な例が82年の教科書問題です。教科書問題がおきたときに与党だった自民党は近隣諸国条項を設けて事態を解決しています。これは、そうせざるをえないという判断が働いたからです。

とても逆説的なことですが、日本の力が相対的に弱まって、まわりの国の力が大きくなっていくにしたがって近隣諸国条項をはじめとする過去の植民地支配や戦争の惨禍にたいする日本の国として構えがどんどん後退していった。変わっていくなかで、それでも戦後50年をむかえ、村山談話がだされた。そして、それにたいする強い反発が一方に生まれました。わたしはそういう一連の動きを考えると、歴史修正主義は最近はじまったものではなく、すでに保守合同がはじまったその時点からはじまっていたと考えるべきだと思います。

なぜ、日本人に歴史修正主義がじわじわ浸透してしまったのでしょうか。戦場と銃後が完全に分断されていたこと。戦争をどうとらえるかというときにここが分断されていた。これがひじょうに大きかったのではないでしょうか。ヨーロッパの場合は、地上戦でしたから、銃後と戦場との区別は事実上ありませんでした。日本の場合、沖縄や一部の島嶼を除けば戦場になった場所はありません。日本列島の本体は地上戦がなかった。であるがゆえに、空襲などが戦争体験として根強く残りました。ですからかなり強い厭戦感が多くの国民に浸透しました。いまでもそれは残っている。しかし、かえってそのために戦場の現実にたいする思考の深まりにはつながりませんでした。

――じっさいに戦場になった中国の人びとの戦争の記憶、そこには残忍な日本軍を目の当たりにしたひじょうに厳しい日本批判があるにもかかわらず、沖縄などの例外をのぞいた日本人には空襲の被害体験はあるけれども、加害の記憶があいまいになっています。

そこが大きな問題のひとつです。もう一つ重要な問題が、政治的な問題、日中国交回復と日韓正常化の条約の問題です。そこに大きな問題をはらんでいます。日本による植民地支配の責任、戦争加害の責任をあいまいにしてしまって、日本社会に歴史修正主義が登場する土壌のひとつを残してしまいました。

そういう意味で、65年の正常化は不十分でした。とはいえ、わたしは65年の日韓正常化は必要だったと思います。これがなかったと仮定すると日韓関係はもっと険悪なものだったでしょう。あったほうがよかったかよくなかったか、という二者択一ならあったほうがよかった。しかし、これは歴史的にみて、不十分でした。これをお互いにどう考えるか。条約の安定性、国際条約がもっている規範性、いろいろな制約があります。正常化はなにを根拠にしたのか、するべきだったのか、それは過去の歴史の精算ではなかったのか。日中の場合にも影響をおよぼしたはずです。領土問題などいろいろなものが残ってしまった。

もっとさかのぼるとポツダム宣言やサンフランシスコ講和条約に韓国が参加していません。これは日本の責任ではありませんが、ときの吉田外交には望ましかったでしょう。日本国家だけの責任ではないし、さまざまな歴史的要因がありますが、その結果としての現在がある。そのためにからまった糸がときほぐせないなかで従軍慰安婦をめぐる問題が浮上しています。アジア女性基金などの取り組みがありましたが、問題を解決することはできなかった。

韓国社会のなかではこの日韓条約のなかの植民地支配の歴史をどうとらえるかが絶えず問われています。韓国が民主化されればされるほど、韓国のナショナリズムは強くなっていく要因になっています。中国の民主化が必要でそうすれば日中関係がうまくいくという人がいますが、かならずしもそうとはいいきれないでしょう。中国の一般の人びとが自由に発言する機会をもてるようになれば、さらに日本にたいする厳しい声がでてくるのではないでしょうか。

こうした韓国や中国の反応は、冷戦が終わろうとしてから(完全に終わってはいません)おきていることです。それにたいして日本では、これまで歴史修正主義が潜行していましたが、いまの日本の苦境を受けて浮上してきた。とくに東日本大震災を受けてナショナル・プライドについて国民世論、メディアが敏感に反応している。韓国の対応にたいしても強い反発が生まれる。おたがいの大統領や政治家との関係もうまくいかず、政治家がナショナリズムをさらに煽る結果につながっている。

朝日はそのなかで、いわば歴史の地雷を踏んでしまったことになります。吉田証言は虚偽であり、朝日の報道は誤りでした。だからといって「従軍慰安婦」問題が歴史的に存在しなかったことにはならないはずです。それゆえ、安倍政権も河野談話を受け入れざるをえないわけです。ただ朝日という日本の自称リベラルをになうメディアによって問題が増幅されたと強く感じている人びとにとって、戦後民主主義にたいするある種の強い憎しみに近いものをかきたててしまったのではないか。

ただし朝日批判は度をこしています。この事態をうけて、戦後なるものを支えていた言説やそれを支えていた重要な柱といえる出版やメディア、大学などが79年以前にもっていた社会的認知やオーソリティをなくしていく事態が一挙に進んでいくのではないかと案じています。今回の朝日の事態はNHKにたいする政権の関与とセットになりながらマッカーシズムにちかい事態に展開するのではないかとみています。朝日が悪質だった事件とはサンゴ事件です。これはまちがいなくねつ造でした。今回は取材が不十分ではありましたが、ねつ造とはいえない。それを長いあいだ放置していた。これはたしかに問われるべきだと思います。とはいえ、朝日を解体させよう、弱体化させようという動きは行き過ぎです。

この問題は「赤報隊」事件のときにすでにはじまっていたのではないかと思います。阪神支局でおきた記者の殺害事件です。あのときのキーワードは「反日」でした。「反日」ということばがメディアに広がったのはあの事件からです。亡くなった小尻記者はおそらく在日韓国人の問題にもコミットしていたのではないか。あのときのテロが「反日」ということばを拡散させました。

――あの事件と北朝鮮の拉致が明らかにされたときにおきたマスコミのキャンペーンで「売国奴」や「国賊」など、それ以前には、およそ恥ずかしくて使えなかったことばがメディアに氾濫しました。いまやこうしたことばが当たり前のように週刊誌などに使われています。

ことばがうすっぺらくなったと思いますが、マッカーシズムのような事態が進行していると思います。マスコミや社会が作りだすマッカーシズム、かたちからみれば政府や国家が率先しているわけではない、しかしそうしたマッカーシズムの熱狂をあおりやすい政治的環境がつくられている。

――政治家のあいだからそうした動きを誘発する発言もあります。

それは韓国にもいえることです。右派系の新聞などがかなり問題のある報道をしています。それは政治家にとってナショナリズムという禁じ手を使ってはならないという合意をお互いが相互に理解をしていかないとなりません。ナショナリズムはならず者の最後の砦、といいますが、政治家が国内をまとめようとするときにこれほど効能あらたかな薬はありません。しかしだからこそ政治家やメディアはこの薬を使ってはならない。そういう抑制がきかなくなっているという事態に立ち至っています。

いま大学教育に必要なものは「政治と宗教」

――そういう状況のなかで、いまの大学教育の長としてなにを目指していますか。

若い学生たちは韓国でもいえることですが、歴史が両義的であることを理解しないまま、歴史事象についてどれが真でどれが偽りであるかを見分ける軸がないがしろにされています。いろいろなことがいわれていて、それについてあるていどわかっています。しかし、それがどういう性質のものであり、どういう論争がすすんでいるのかがわからない。多くの学生は問題の圏外にいます。ことばを変えれば無関心。

無関心だからといってさまざまなヘイトスピーチなどの問題に関心をまったく失っているわけでもない。かえってあるとき過剰な政治的関心にぶれることもある。没政治的な学生がとつぜん過政治的になる可能性ももっています。ヘイトスピーチをまきちらしている若者は、それ以前は至極当たり前の若者だったのかもしれない。そう考えると、いまの若者は可塑性に富んでいて、どちらにいくのか偶発的な出会いによってどちらにも変わっていくととらえています。

最初からなにかを押しつけることをしてはいけない。どちらに向かうのかそれを考える座標軸をどうつくるのか、お仕着せではなく彼らの内側にはいってなににいちばん悩んでいるか、なにに心を痛めているか、それをすこしでも引き出したい。聖学院大学では少人数を重視しています。生きづらさのなかで、その正体がなかなかわからない。ルートを降りてしまった、逸脱してしまったと思っている学生もいます。そういう学生が問題をしっかり受けとめながら学んでほしいと思っています。

いまの日本の学校の最大の問題は宗教と政治を教えないことです。学生によく聞きます。あなたたちは無宗教か。99%が無宗教だといいます。しかし、無神論かときくと、えっと驚いています。つまり宗教について考えたことがない。先生からまともに問いかけられて宗教について考えたことがないから。無党派かと聞くとほとんど無党派だという。たまにある政党を支持しているという学生がいると、みんながびっくりして一種白い目でみることになります。

右でも左でもいいから単なる無党派ではないという位置から議論することを勧めています。日本では戦後民主主義のある時期をのぞいて宗教と政治がタブーになってしまった。宗教や政治について知らないことがふつうのことになってしまい、無関心であることがマジョリティになってしまった。たえず無関心からものをみるので、ヘイトスピーチがおきても、それにたいするシャープな反応がでてこないのです。一時期、フランスでもヘイトスピーチの問題がありました。しかし、それにたいする対抗言論もすぐに大勢の人びとに共有されるものになりました。大学で学ぶときに、宗教や政治について押しつけではなく、自分の問題として考えてほしい。そうしたときに歴史や隣国のことがみえてくるのではないでしょうか。

かん・さんじゅん

1950年、熊本県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。旧西ドイツ、エアランゲン大学に留学の後、国際基督教大学助教授・准教授などを経て、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授。2013年、聖学院大学に移籍し、2014年より学長を務める。専攻は政治学、政治思想史。テレビ、新聞、雑誌など、幅広いメディアで活躍。
著書に『反ナショナリズム―帝国の妄想と国家の暴力に抗して』(講談社+α新書、2005年9月)、『悩む力』(集英社新書、2008年5月)、『母―オモニ―』(集英社、2010年6月)など多数。近著に『東アジアの危機――「本と新聞の大学」講義録』(集英社新書、2014年7月)などがある。

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