連載●シリーズ「抗う人」⑪

「準戦時体制」に抗いジャーナリストの覚悟を問う~原 寿雄

ジャーナリスト 西村 秀樹

「いまは準戦時体制。海外で戦争のできる国家作りが進み政府に寄り添う新聞とその批判派とで日本のメディアは内戦状態。だが発行部数を見る限り、孤立しているのは政府に寄り添う側の新聞だ」こう説くのは共同通信OBの原寿雄。89歳にしてなお日本中を飛び回る。

《ジャーナリストの覚悟を問う》

「非国民と非難され揶揄されようが、権力監視、戦争反対を貫くジャーナリストとしての覚悟が必要な時代になってきた」

メディアは内戦状態、ジャーナリストの覚悟が問われると力説する原寿雄さん
(9月22日京都で。写真はKBS京都労組提供)

京都御所に面するKBS京都放送ホール、労組主催の集会でこう説いたのは原寿雄だ。原は1925年3月生まれ、関東大震災から2年、日本にラジオが誕生した年に当たる。50年アジア・太平洋戦争の敗戦から間もなく共同通信に入り、以来、社会部時代には、警察官による派出所爆破でっちあげの菅生事件のスクープで日本ジャーナリスト会議賞の第1回を受けた。外信部長、編集局長など歴任、岩波新書『ジャーナリズムの思想』などを著し、新聞だけでなく放送にも詳しく、ジャーナリズムの世界のご意見番である。

毎日1時間の散歩は雨の日も欠かさず背筋は伸び、今年八九歳と思えないほど記憶力と足腰はしっかりしている。「海軍時代、階段は2段階で上れと鍛えられたからね」。秘密を明かすのを楽しむかのように、はにかむ顔がチャーミングだ。京都で長時間インタビューした。

《天皇に身を捧げる皇国少年》

生まれた1925年は「大正デモクラシーと昭和軍国主義が重なる接点の年。次第に軍国主義が強まり、天皇制ファシズムへの道を進んだ」とふり返る。

父親は自前の田畑をもたない小作農。原は長男として、神奈川県平塚市の郊外の農村に生まれた。祖父は屋根屋さん、原には幼い頃から「ヤネトシ」とのあだ名が付いた。サツマイモ堀りのシーズンの7月、8月になると、まだ暗い午前3時に起きて、京浜市場にトラックがでる午前7時までに出荷する手伝いをした。「水呑み百姓」の下には、朝鮮人の廃品回収業者しかいないくらい貧しい生活であったという。

小学校の同級生の多くが奉公。原家の姉3人も「しつけ見習い」という名目で、女中奉公に東京などに出されたが、親父は長男の寿雄には「とにかく学問がなけりゃだめだ」と口癖のように話し、農学校に行く。農学校は農学従事者を養成する戦前の中等および高等教育機関で、札幌農学校などは後に大学になった他、戦後多くは農業高校になる。

日本は満州事変や日中戦争と中国への侵略を進め、41年12月8日真珠湾攻撃で米英とのアジア・太平洋戦争に突入すると、原は年末、農学校を繰り上げ卒業となった。原は国鉄に入り、品川駅で改札係を担当した。毎晩のように品川駅からは兵員輸送の特別列車が編成されるのを目撃している。

当時朝日新聞に連載された小説『海軍』が翌年に松竹で映画化されると、原は海軍の経理学校をめざす。「映画のさっそうとした海軍士官の姿から強い刺激を受けたように思う」という。

はじめ海軍入りに反対した両親を、徴兵年齢が19歳にさがり、「どうせ兵隊に取られるなら」と説得し受験、原は海軍経理学校に合格する。海軍経理学校は軍の学校中一番難関と言われていた。所在地は神戸の垂水であった。

44年10月の入学から敗戦の翌年8月20日すぎまでのおよそ11か月に、原は同期では最多の2千発のビンタを受けたという。もっとも入学した年の秋には、靖国神社の臨時大祭に全校生徒が参拝、原はクラス代表に選ばれるほど天皇への忠誠を誓った。学校で原は「日本の神はキリスト教など外国の神よりなぜ偉いのか」と国史の教官に質問したこともあったという。原はこんな質問をする背景に、自らの大正デモクラシーの合理精神の遍歴をみる。その一方で、戦後原は同じ質問をして刑務所に送られたキリスト者の存在を知ることになる。

「当時私は熱烈な天皇教の軍国主義者であった」と、過去の自分をそうふり返る。こんなエピソードを話してくれた。

45年8月15日玉音放送で日本の敗戦を知ると、原はアメリカに負けたことが悔しく涙を流した。「かきくらす アメリカえびす襲うとも 我は殉ぜん すめらみことに」と天皇への忠誠をなお抱き続けていたという。

《旧制一高でリベラルへ》

玉音放送から間もない8月23日に神戸から平塚に復員すると、平塚一帯はアメリカ軍の空襲で焼け野原になっていた。「焼け残りのケヤキのあちらこちらから、蜩の輪唱が響いていた。懐かしいその声にはげまされ、私は人生をやり直す決心をした。かなかなも生きている わが臍つかむ、と一句詠んだ」と、自伝に書いている。

10月1日、旧制一高に転入学する。試験で、アメリカのリンカーンの有名な「人民の、人民による、人民のための政治」というゲティスバーグでの演説に接する。「強い感銘を受けた。軍国主義、天皇主義から自由主義、民主主義への私の転向の契機は、この時点だったのではないか」とふり返る。一高には18か月間いた。海軍経理学校での日記を、復員の際もちかえった南北朝時代の南朝護持派北畠親房の『神皇正統記』とともに、焼き捨てた。軍国主義者からリベラリストへの移行が始まる。

敗戦から2年後の47年春、原は東京大学法学部に進学する。政治学科だが、丸山真男の講義を受けた記憶はないという。翌年、中央公論を受験するも落ちた。実は、のちに読売新聞の強力なリーダーになる渡邊恒雄も同じ時期に中央公論を受験し落ちたことを告白している(魚住昭『メディアと権力』)。同じジャーナリズムの世界で、権力との距離の取り方が大きく異なる2人が同じ出版社を志望し、ともに落ちた事実は興味深い。

《ジャーナリストに》

大学卒業を控えた49年12月、原は共同通信社会部に入った。3か月間は試用期間で、翌年の3月、同期の学生より早く正規社員になる。原は、ジャーナリストを志した理由を6つあげる。第一に自由な空気へのあこがれ。第二に社会の動きや事件の真相に近づける魅力。第三に、社会を良くする上で役に立ち、生きがいのある仕事を夢見た。第四に、歴史を最前線で見ることの面白さを夢見た。第五に、自分の良心、正義感を曲げずに生きることができそうな職業ではないか?(ここではクエスチョンマークがついている)。第六に、ルーティンワークに耐えられそうになかった。

1年余りで司法担当の記者になった。検察と法務府(当時)の担当で、52年の血のメーデー事件では、現場の皇居前広場の土手から一部始終を眺めていた。デモ隊が次々に押し寄せ、やがて警察官がピストルを水平射撃に移し、見物人のいる土手にも、「2、3発、ピュー、ピューという音が流れた」という。

サンフランシスコ片面(原はこう書く)講和条約が発効し、日本が連合国の占領からようやく主権を回復する時期だ。2年前の6月には、朝鮮戦争が勃発。新聞やラジオ(といってもNHKだけが対象だった)ではレッドパージで、アカと名指しされた記者700人余りがクビを切られる。日本共産党の機関紙アカハタは発行停止処分。なにより、日本共産党は、軍事路線をめぐって所感派と国際派に分裂し、徳田球一や伊藤律ら9人は団体等規制令違反で逮捕状が出て、地下に潜っていた。朝日新聞が伊藤律の会見記事を載せ、3日後に架空であったと取り消したのもこのころだ。

《菅生事件でスクープ》 

東西冷戦の激化、朝鮮戦争の勃発に伴い、連合国の日本占領政策は民主化・非軍事化から、反共の砦・再軍備へと大きく変化する。逆コースと言われた。52年7月破壊活動防止法施行に伴い。公安調査庁が発足する。

この時期、原は公安調査庁と警視庁の公安担当になっていた。原は欧米の記者たちがソ連共産党の公開文書から動向を読み解くやり方にならって、日本共産党の動向を公開文書から読み解く取材方法を編み出す。アカハタと月刊誌『前衛』が基礎データとなった。「徳田書記長に重大異変」との記事を書き、分析結果を新聞紙面に発表した。

55年7月末、共産党は六全協(第六回全国協議会)を開催、徳田球一書記長が2年前にすでに死亡していたことや武装闘争路線の放棄を発表した。8月には、神宮外苑・日本青年館で開かれた日本共産党の集会に、地下に潜伏していた野坂参三ら幹部3人が突如現れた。原は、当時、共同通信の労働組合の専従書記長で休職中だったが、「なにかあるぞ!」とにらんだ原は社会部に声をかけ、8月11日、後輩記者2人とともに会場に入りステージ直下に構える。すると、「志田だ」と後輩記者が叫んだ。潜行幹部4人のうち、野坂参三、志田茂男、紺野与次郎が現れた。入り口に一台しかない公衆電話は共同通信の記者が独占し、会場にいた私服刑事も連絡ができず、共同通信の特ダネになった。

翌年には菅生事件のスパイ警察官を捕まえるスクープを放つ。この事件は、六全協で共産党が武装路線を放棄する以前の52年6月2日未明、九州の阿蘇山の麓にある大分県菅生村の巡査派出所で爆発が起こり、大分県警は日本共産党員の犯行だと党員5人を逮捕した事件だ。一審の大分地裁は党員5人に懲役1年から10年の有罪判決を下した。が、福岡高裁で審理中の二審になって、被告や弁護団は事件前夜から姿を消した男が、大分県警の警察官であったことを結婚式の写真から割り出した。56年9月、第3回公判では、弁護側は大分県警が共産党内部にスパイを送り込んだ末の自作自演のでっち上げ事件だと消えた警官の存在を発表した。しかし肝心の警官が見つからない。

原はアカハタで顛末を知り、共同通信内部に特別捜査班の設置を進言、6人の記者が従事することになった。消えた警官を追った結果、当時、警視庁の公安に勤務する警察学校の同期生がこの男をかくまっている疑いが強まり、新宿区内のアパートがあやしいと目を付けた。新宿コマ劇場の裏手のアパート春風荘が大当たりで、翌57年3月13日夕方、原以下現場組がこの警察官戸高を捕まえ、近くのバー白鳥の2階に連れて行き、六時間近く尋問した。戸高はのらりくらりとしっぽをつかませない。まもなく私服警察官がバーの階段下に5、6人姿を見せた。警視庁は戸高が共産党員にらちされたのではないかと疑ったらしい。やがて、共同通信の警視庁キャップが警察庁幹部と連絡し、「翌日、会わせる」との約束を取り付け、深夜零時頃、特捜班は戸高を釈放した。

翌日、新橋の観光ホテルで共同通信単独の戸高会見が行われ、15日朝刊には、「消えた警官 戸高現わる」との大きな見出しが躍った。ただし、内容は潜伏中の警察官を共同通信の特捜班が捕まえたことも、警察組織にかくまわれていたことも表現されず、戸高の方から進んで現れ「駐在所爆破などやっていない」と弁明した形の記事になった(原の「ジグザグの自分史二五年」とのサブタイトルがついた自伝『ジャーナリズムに生きて』岩波現代文庫に詳しく載っている)

原によると、共同通信特捜班が監禁罪で逮捕される恐れがあり、社会部長らが警察と手打ちをしたのではないかと疑っており、部長は「社外に原稿を書くときはすべて部長の目を通すように」と指示し、部長と部員の対立は深まったという。

ことの真相が明らかになり、福岡高裁で審理中の菅生事件は、5人の共産党員に無罪判決が下りた。原たち共同通信特捜班は、58年に創設された日本ジャーナリスト会議賞を、大分合同新聞、大分新聞、ラジオ九州(現RKB)、ラジオ東京(現TBS)の記者たちとともに受けた。

この菅生事件には後日談がある。大分出身の元NHK社会部記者小俣一平が2009年に坂上遼のペンネームで著書『消えた警官』を出版したが、この本によると、当時の共産党大分県委員長都留忠久にインタビューしたところ、「当時あの状況(菅生村では旧地主と小作農との対立が深まり、アメリカ軍の演習地計画が浮上していた)の中で活動していたのですから、元被告たちでなくともやっていたでしょうな」「もちろん、暴力革命をめざしていたわけだから、米軍と地主、資本家の手先の駐在所を爆破することは前衛の仕事だった」「1か月警察が待っていれば、冤罪、でっち上げ事件ではない、本物の菅生事件が起きていたと思う」と語ったと書いてある。原は「ショッキングなニュースである」と率直な気持ちを自伝に記している。

《組合専従から社会部デスクに》

 原は、55年4月から半年間、共同通信の専従書記長を担当し、さらに58年から4年半新聞労連の専従副委員長になる。ここで「新聞を国民のものにする闘い」を提案し、採択された。このとき、ブル新論争が起きたという。共産党から「資本に支配されている新聞を国民のものにする戦いなぞ幻想にすぎない。新聞の中立性は欺瞞である」と批判があった。原流にこの批判を読み解くと、一般商業紙はブルジョワの新聞=「ブル新」であり、その改良運動など新聞労働運動の目標にすべきではないと受け取れる内容であったと、総括した。で、原は「この運動が社会主義化のたたかいではなく、民主主義を守り拡大するためのものである」と反論したという。

ときあたかも60年の安保闘争の時期。新聞労連のデモ隊は警察官に追われ、原もすんでのところで、逮捕されかかった。

労働組合の専従から解き放たれた後、原は社会部のデスクになる。原自身の定義によると、デスクとは「紙面に載せるのにふさわしいか否かを決める門番ではない。プロデューサー兼ディレクターだと私は自任してきた。記事の企画立案やその筆者を決める人事にもかかわって、全体の編集活動を推進する。ジャーナリズムの質を決めるのはデスクの質である」。

原は、共同通信社会部のデスクを担当するかたわら、63年12月からおよそ5年間、みすず書房の月刊誌『みすず』にペンネーム小和田次郎でデスク日記を連載し、65年に第一分冊を出版した。

「そもそもの動機は新聞ジャーナリズム批判に対する不満である」と述べている。

現場を知らないが故に無茶な新聞ジャーナリズム批判が跋扈することに対する危機感である。「週一ぐらいの泊まり明け休みに、川崎の公団アパート2DKで子どもたちが寝静まったあと深夜まで書いた覚えがある」という。

原はこの時期、JCJ(日本ジャーナリスト会議)代表団の一員として中国を訪問した。まだ日中両国政府間で国交のない時代だ。北京で、中国の陳毅外相が「中ソ対立が起きている。両党の対立は歴史的に第三段階を迎えた」と認めた。原は代表団の報告書にその点を書くべきだと主張したが、共産党員である代表団の書記らの強い反対で実現しなかった。副首相兼外相が記者会見で認めた発言を黙殺する態度に、原は「根源的な疑問を抱いた」という。原によると、大衆的文化団体であったJCJが60年前後から新聞経営者からの攻撃もあり、政党の論理がもちこまれたという。

69年、原がペンネームで出版した『デスク日記』が日本ジャーナリスト会議賞に内定したが、原は受賞を断り、相前後してJCJを脱退する。政治的立場はジャーナリスト党だと原は宣言する。曰く「ジャーナリストは決して政党のしもべになってはならない。ジャーナリズムの自由は政治から超越したものでなければならない」。(ちなみに、2013年『デスク日記』は原寿雄自撰で短縮ヴァージョンが復刊された。出版したのは、菅生事件のフォローを書いた、元NHK記者小俣一平が経営を任された弓立社だ)

《放送界のご意見番に》

69年、原にバンコク支局開設のため新任支局長の辞令がでた。「うるさい人間を現場から追い出そう」という会社側の思惑を理解した上で、原はバンコク行きを承諾する。この時期、原には社会党の機関紙『社会新報』編集長、あるいは同志社大学教授、はてはTBSのニュースキャスターまで転職の打診があったそうだが、いずれも断っている。原が2年間の支局長勤務を終えた72年の翌年、共同通信プノンペン支局長石山幸基の解放区取材と行方不明事件が起きた。のちに石山はカンボジアの解放区で病死したことが判明する。74年から総務局長として、労務対策を担当。77年2月からは編集局長、さらには収益部門を担当する株式会社共同通信の社長(本体は社団法人共同通信)としてビジネスにも励んだ。

93年には、テレビ朝日の椿報道局長の発言が問題視されたのをきっかけに、NHKと民間放送連盟(民放連)は第三者委員会を設置するが、原はこの時期、放送業界との接点が増える。

椿発言問題をおさらいすると、93年宮沢喜一総理の下、小選挙区制導入をめぐる政治改革の問題で内閣不信任案が衆議院で可決され、7月18日総選挙の結果、非自民の細川護煕内閣が誕生する。9月21日に開かれた民放連の第六回放送番組調査会の席上で、テレビ朝日の椿貞良報道局長の発言が放送法に違反するのではないかと、産経新聞が暴露する記事をかいた。椿報道局長は直後に解任された上、国会で証人喚問を受けた事件である。放送法には、政治的に公平にとの規定があるが、産経新聞は椿局長が「非自民の連立内閣が成立するように報道しようではないか」と発言したと報道した。テレビ朝日は郵政省(当時)へ、特定の政党を支援するような具体的な指示は出していないと、内部調査の報告をした。

原は、94年から6年間民放連の放送番組調査会の委員長を、さらに民放連とNHKで作る第三者委員会「放送と青少年に関する委員会」の委員長を5年間、合計11年間勤める。ここで原は多くの放送関係者と出会う。原は「自律の訓練が足らない」と日本社会をしかる。放送局には報道部門があっても、報道人意識よりも興業ビジネスのマネージャのようだと、新聞通信の世界が長かった原は違和感を覚えたという。

こんな事例が問題になった。フジテレビのバラエティ番組『愛する二人、分かれる二人』は、男女が互いのプライバシーを暴く。テレビ局側は「お互いが合意の上だから問題はない」と釈明したが、委員会側は「出演者が承諾すれば何をやってもいいことにはならない」という趣旨の合意を得た。結果、この番組はまもなく打ち切りになった。

青少年委員会では消費者金融のテレビコマーシャルが問題になった。2003年、業界団体の調べで、新規契約者のうち20歳代が46パーセントと半数近くを占めていることに着目した。この業界から民間放送へのCM出稿量が年間400から500億円にも上ることを推計されることを踏まえ、青少年委員会はCMの放送時間を午後5時から9時までの時間帯の自粛、遅滞金などリスク面もふれること、安易な借り入れを助長しない内容など3点をまとめ、民放連と合意した。この問題は、最高裁判所が2006年に消費者金融業者に厳しい判決を出したことが決定打になり、2010年には武富士が経営破綻するなど、社会的にも大きな影響を与えた。

《沖縄密約で情報公開の裁判》

沖縄密約の情報公開請求の原告団と弁護団、後列左から6人目が原寿雄さん(ちなみに左中腰の白髪姿が筆者)

この『現代の理論』の連載「抗う人」第1回目は、沖縄密約をあばき、国家公務員法違反に問われた毎日新聞記者の西山太吉について書いた。原は、この沖縄密約をめぐっても、日本政府に対し情報の公開を求める、さまざまな闘いを組織した。詳細はすでに書いたから、ここでは原の役割だけを述べるが、2008年、情報公開法に基づいて、原は、開示請求の手続きに入った。請求人は63人。代表にはTBSのキャスター筑紫哲也、憲法学者の奥平康弘。のちに外務大臣と財務大臣が「文書不存在」と返事をしたので、外務大臣と財務大臣を相手取って、正式裁判に進んだ。原告を集めるために、方々に声をかけた。その段階で、原は、沖縄返還協定当時の外務省アメリカ局長吉野文六の自宅を訪問している。

吉野はつぎのように述べた。「日本がアメリカに支払った3億2千万ドル全部が密約と言える。積算根拠などない。全くの掴み金だ」。25人の原告(その中には、不肖、筆者も原からの連絡で原告に加わった)。裁判の結果、一審の東京地裁は原告120パーセントの完全勝利であった。精神的慰謝料一人10万円の支払いも国側に認めた。

判決の瞬間、法廷にいた原は涙がにじんだという。裁判は二審の高等裁判所で「国が廃棄したと言っているから信じるしかない」さらに、最高裁に至っては「文書の存在を証明する責任は原告側にある」と、情報公開の制度のハードルを高くする、民主主義の流れに逆らう逆転敗訴判決を下した。

《メディアの内戦状態》

最近になって、原は耳に補聴器をつけても少し不自由なので、マスコミ学会など大きな会場でのイベントへの出席を遠慮していると釈明するが、小さな集会にはあちらこちらこまめに顔を出す。とりわけ、若いジャーナリストに元気になってもらいたいという。

そうした原の現状分析は、冒頭に書いたとおりだが、少し長いが再録する。

「安倍内閣は戦後最悪の内閣である。集団的自衛権の閣議決定だけによる変更、特定秘密保護法の制定など、日本を国連の安保理常任理事国=米英仏中ロなみの、戦争のできる武力を背景にした政治的発言力を増すことばかりを考えている。こうしたときに、問題は日本のマスメディアが、政府に寄り添う、読売、産経のグループと、そうした流れに批判的な朝日、毎日、東京=中日、そして共同通信をはじめとした地方紙・ブロック紙連合に分裂していることだ。いわば、メディアの内戦状態と言っていい。

しかし、メディアは内戦状態にあるとはいえ、発行部数という読者の動向を見る限り、実は自民党・公明党の与党に寄り添う新聞の部数は、決して多数派ではない。むしろ、批判派の方が多数派である。およそ7対3か。

今回の朝日新聞へのバッシングも、保守というより右翼といった方が的確な動きだが、そうしたナショナリズムは、中国・韓国はもちろん、アメリカでも好意的には迎えられていない。

かつて戦前、日本のジャーナリズムは戦争を止めることはできなかった。メディアが内戦状態のいま、ジャーナリストは戦争に反対する覚悟が問われている」、と。

日本の進路を間違った方向に導いてはならないと、原は強く警告を発して、京都の講演は幕を閉じた。会場からは大きな、共感の拍手がわいた。

にしむら・ひでき

1951年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、元毎日放送記者、近畿大学人権問題研究所客員教授。同志社大学社会学部非常勤講師。著書に『北朝鮮抑留~第十八富士山丸事件の真相』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争~吹田・枚方事件の青春群像』(岩波書店)など。

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