特集●次の時代 次の思考 Ⅲ

「朝日叩き」で保守・右派メディアが暴走

「仁義なき」朝読戦争の果てに―仕掛人「ナベツネ」は勝者か

ジャーナリスト 金子 敦郎

朝日新聞の「従軍慰安婦は強制」とした一連の報道、加えて全て誤報と分かってからそれを認め記事を取り消すまで30年余も誤報を放置した過ちには、内外に大きな影響力を持つ大新聞として償いきれない責任がある。しかも「従軍慰安婦問題」は「南京事件」などとともに「侵略戦争の反省」か「自虐史観」か、という歴史論争を左右するテーマの一つだっただけに、朝日に厳しい批判が突き付けられたのは当然である。だからと言って保守・右派メディアの「朝日叩き」「朝日潰し」の攻撃は批判の域をはるかに超え、異常だ。勝ち誇った右派メディアでは「非国民」「売国奴」「国賊」など、あの忌まわしい用語が平然と飛び交っている。勝者なき争いなのに。メディアの退廃現象がなぜここまできたのか。この事態の背景にあの「仁義なき朝読戦争」の影を重く感じざるをえない。

発行部数の争い

朝読戦争とは朝日新聞と読売新聞の覇権争いである。戦後日本のメディアといえば、朝日、読売、毎日3大全国紙の寡占体制のもと各県に1ないし2の地方紙(ブロック紙と県紙)、共同通信、ラジオはNHKだけ。このころのメディアはそろって侵略戦争に加担させられた体験とその反省から平和主義、権力監視、不偏不党に立っていた。

日本は60年安保から70 年安保を経て高度成長期に入った。この間メディアの世界にも大きな変化が押し寄せた。ラジオ局が増え、テレビ放送が始まり、新聞の報道機関として独占的な地位が脅かされ始めた。新聞社の販売拡張競争が激しくなり、3大全国紙のうち毎日が脱落して、朝日と読売の熾烈な覇権争いが始った。新聞販売店の販売促進担当者が暴力団まがいの押し売りをしたり、大型景品をばらまいたりして、新聞倫理に反すると厳しい世論の批判を浴びた。そのなかで読売は1977年朝日を抜き、1994年には1,000万部を突破したとされる。以来、読売は最大発行部数紙の地位を維持している。

読売は発行部数という量の争いでは覇権を確立した。しかし新聞広告欄の価格(1段1行の価格が基礎単価になる)ではなお朝日におよばなかった。広告の価格は発行部数とともにその新聞の持つ社会的な影響力、つまり有力な階層の読者を多く持っている朝日に広告を載せた方が効率がいいと広告業界は判断している。読売はジャイアンツ新聞と呼ばれる一方、朝日は知識層の新聞というのが一般的な評価なのだ。読売は「質」でも朝日を追い越そうと、クオリティーペーパー(高級新聞)を目指す。事件ものに強いというのが売り物だったが、国際問題や学術文化の報道の強化を図り、研究活動や内外の著名人や学者を集めたシンポジウムなどにも力を入れるようになる。

改憲キャンペーン

ここで登場するのが「ナベツネ」で知られる渡邉恒雄氏だった。強烈な個性の持ち主で、取材相手の有力政治家の懐に入り、取り込むタイプの政治記者。なかでも自民党領袖の1人、保守派の中曽根康弘氏と同志的な親密な関係を築いたとされる。ワシントン支局長、政治部長を経て1979年取締役論説委員長につくと、それまでの不偏不党路線を保守寄りへと舵を切る。筆頭副社長をへて1991年に社長に収まると、憲法9条改定を目指す改憲キャンペーンに乗り出した。

戦後の日本では平和憲法に基づくリベラリズムが優勢で、朝日新聞はそのリーダー役を自負してきた。読売新聞は最大発行部数を持つ大新聞として、朝日に対抗して保守日本を目指すオピニオン・リーダーの役割を担おうというのだ。渡邉氏が読売新聞の実権を掌握していったこの時期は、中曽根康弘氏が1982年首相に就任、同86年まで長期に政権を担った最盛期とほぼ重なっていた。

読売新聞の保守旋回にタイミングを合わせたかのように戦後政治に地殻変動が起こった。長期に政権を独占してきた自民党の「賞味期限」が切れて、1993年一時的に非自民8党連立の細川政権が生れる。これは短命に終わり、1994年に護憲派社会党の委員長を首班に取り込んだ自社さ連立の村山政権に移行した。村山は就任演説で「自衛隊は合憲。日米安保維持」を宣言し、社会党は混乱のうちに崩壊の道をたどることになった。日本政治の保守化が加速していく。

政権復帰した自民政権(橋本内閣や小泉内閣など)のもとで日米安保の「再定義」が行われ、日米防衛指針(ガイドライン)、PKO法、周辺事態法などが次々に押し進められた。無理やりの「解釈改憲」はどこまで行くのか。読売新聞は2004年憲法改正試案をまとめ、自民党も翌2005年の結党50周年に新憲法草案を発表した。

この保守化の流れのなかで、中曽根首相が火をつけた首相の靖国参拝問題をはじめ、南京大虐殺、従軍慰安婦問題など中国、韓国との間で歴史観をめぐる対立がことあるごとに噴出した。憲法改正や日米安保問題および歴史問題をめぐる報道を通して、主要新聞の間に保守、リベラル両派の色分けが鮮明になって行った。

社説や論評などで政治的立場がはっきり分かる欧米紙と違って、日本の新聞の中身はほとんど同じと言われた。その時代が終わった。保守派は朝日の対極に立つ読売、「新聞はみな同じではありません」をキャッチコピーに朝日叩きで右寄り読者を固めて生き延びたい産経、日本版ウォールストリート・ジャーナル紙を任じ政財界の側にたつ日経。対するリベラル派は朝日、毎日、東京(1967年以降、中日新聞の傘下)。 新聞の発行部数は経営上の秘密事項とされているが、業界で伝えられるところでは、朝日問題が起こる前の2014年上半期の平均で、保守、リベラル両派の発行部数は以下の通りだった。

▽保守派:読売956万部(以下同)、産経161、日経277の合計1,394。▽リベラル派:朝日743、毎日333、東京52の合計は1,128。

保守派がリベラル派をわずかながら超えていた。朝日の従軍慰安婦報道の「誤報-記事取り消し」の大失態で、激しい攻撃を受けた朝日は既に数十万もの購読者を失ったとの情報も流れている。今後、この数字がどう動くのだろうか。

巨大組織と無謬性

メディア界の保守対リベラルという対立で焦点になったのが、戦時中に韓国・済州島で日本軍による「従軍慰安婦の強制連行」が行われたとする1982〜1994年の一連の朝日報道だった。朝日報道は国内と韓国はもとより国際的に大きな衝撃を与え、軍が直接関与した記録はないとの立場を取っていた政府は追い込まれた。宮沢首相が韓国大統領に謝罪(1992年)、「強制性」を認めた河野官房長官談話(1993年)、さらには戦後50年に際してアジア諸国に対する日本の植民地支配と侵略を反省し謝罪した村山首相談話(1995年)につながった。

朝日報道のもとになったのは戦時中、山口県労務報国会下関支部動員部長だったという吉田清治氏(故人)の講演や著作だった。朝日の初報のあと他の数紙も追いかけて報道したが、信ぴょう性に疑問が残るとして、継続しての報道は控えた。秦郁彦(ジャーナリスト・現代史家)、吉見義明(中央大学教授)両氏らの調査によって吉田発言は虚偽であることが明らかになる。朝日記事はリベラル・イデオロギーに基づくねつ造とする追及も含めて、読売、産経、週刊誌の保守派メディアなどの執拗な朝日批判が始まり、河野談話や村山談話の見直し要求にも発展していった。

朝日は1997年、吉田証言の裏付けがとれない、吉田氏はデータ提供を拒んでいる―としながら、なおも「真偽は不明」と報じた。それから17年経った今年8月、朝日はようやく特集紙面で一連の記事の点検結果を報じたうえで、本文とは別の「読者のみなさまへ」の欄で「吉田証言は虚偽だったと判断し、記事を取り消す」と伝えた。「検証記事」の前書きになっている「編集担当 杉浦信之」の署名入りの記事の以下の部分と合わせて、この特集はいかにも弁解がましく、未練がにじみ出ていた。「恥の上塗り」となった。

「慰安婦問題に光が当たり始めた90年代初め、研究は進んでいませんでした。私たち は元慰安婦の証言や少ない資料をもとに記事を書き続けました。そうして報じた記事の一部に、事実関係の誤りがあったことが分かりました。問題の全体像が分からない段階で起きた誤りですが、裏付け取材が不十分だった点は反省します。似たような誤りは当時、国内の他メディアや韓国メディアの記事にもありました」

ジャーナリズムに誤報は許されない。だが人間のことだから、誤りはゼロにはならない。誤りを犯したら可能な限り早く訂正し、潔く謝罪するしかない。朝日新聞はなぜそれができなかったのか。

新聞各社は抜きつ抜かれつの特ダネ競争で日を送っている。そこにイデオロギー色の強い政治路線の対立が持ち込まれた。筆者が取材現場などを通して知り合った記者仲間は多いが、渡邉氏の威令が行き届いた読売、あるいは先鋭的右派の産経の記者の中には朝日に対して通常の競争心を超えた敵意ともいえそうな激しい対抗意識を持った人も少なくない。

一方の朝日は長年、新聞界の最高権威として君臨してきた。朝日の友人たちは総じて自信にあふれた優秀な記者たちだ。だがそれは傲慢さに通じる。見下していたともいえる競争紙に失敗を執拗に攻撃され、プライドは傷つけられた。それはゆがんだ反発を生み、彼らには頭は下げたくないという思いが社内を支配したとみておかしくない。共産主義政党や巨大な官僚組織の無謬性ということがよく言われる。それと全く同じというつもりはないが、朝日新聞もこの無謬性から自由ではなかったのだろう。

朝日新聞は深い傷を負った。社会の信頼を回復して権威あるオピニオン・リーダーの地位に復帰できるのだろうか。ジャーナリズムの腰がふらついているような対応ぶりをみると、予断は許されない。しかし読売が勝って質量ともに新聞界の頂点に立とうとしている、とも言えない。保守、リベラル両派を代表する大新聞の発行部数は合わせて2,500万部、全国で発行されている日刊新聞の総発行部数のほぼ半分でしかない。朝日の購読をやめた読者が切り替えた購読紙は毎日か東京がほとんどで、読売や産経に移る例はあまりないといわれている。

全国紙vs共同・地方紙連合

全国の新聞発行部数はかつて6,000万部と言われた。ラジオ、テレビの進出に加えIT時代の到来で、首位の読売が1,000万部を割り込み、総発行部数も減って現在は約5,000万部とみられる。全国紙を除く残り半分の約2,500万部は地域紙(ブロックと呼ばれる中日、北海道、西日本)や県紙と呼ばれる地方紙が占めている。これらの新聞はそれぞれ全国各紙と激しい競争関係にある。東京、大阪、名古屋といった全国紙の発行元では地方紙の経営は苦しい。だが、全体で見れば地方各紙には地元で購読される新聞のほぼ5割、なかには6〜7割もの普及率を持つ有力新聞が多い。全国紙は残りの市場を分け合っているにすぎない。

地方紙は保守かリベラルのどちらか、と言えば簡単には色分けはできない。しかし集団自衛権行使を閣議決定した安倍政権に対して、社説や論説ではっきり反対を表明し、批判する新聞が42紙のうち39紙、賛成したのは3紙に過ぎなかった。これは地方各紙の政治的傾向を示す有力なデータだ。共同通信のリベラリズムが影響していると、保守派からの共同通信攻撃の材料にされるかもしれない。

地方紙は地元には強力な取材力を展開しているが、域外や首都、海外のニュースは主に共同通信からの配信に依存している。地方紙はその発行部数に応じた分担金を負担して共同通信加盟社になっている。全国紙が発行部数を伸ばそうとすれば、全国紙同士の競争だけでなく、地方紙の読者を奪い取らなければならない。全国紙対共同通信・地方紙連合という競争だ。

地方紙は共同通信に「全国紙に負けない質の高い紙面をつくれる記事、写真、各種データ」の配信を求め、共同通信も「全国紙を超える取材、記事」をモットーにしている。共同通信から加盟新聞社に送られるニュースは政治、経済、市場、社会、文化、学術・科学、スポーツ、国際などあらゆる分野におよび、論説資料や連載小説、漫画の配信もある。

この全国紙対共同・地方紙連合の競争の歴史は古く、朝日、毎日、読売の全国3紙は1953年そろって共同通信から脱退して、自力ではカバーしきれない国際ニュースだけの配信を受ける契約社になった。地方紙と競争するには共同通信を弱くする必要があるというわけである。共同通信および地方紙は3大新聞の加盟分担金を失って危機に陥ったが、その後に開局した民放ラジオやテレビへの配信契約を増やすなどして苦境を克服し、現在に至っている。だが全国紙と共同通信・地方紙連合の競争関係は変わらず、特に読売の発行部数の拡大を目指す渡邉氏の動向に共同通信の経営陣は神経をとがらせてきた。

読売、朝日、日経の全国紙3社は2007年10月、インターネット事業や新聞販売分野で業務提携すると発表、激しく争ってきた読売と朝日が手を組んだことで新聞界の競争が新しい局面を迎えたと驚きをもって受け止められた。朝、読は直接の競争相手ではなくITに強い日経と組んで① 共同してインターネット・・サイトを構築(2008年「3紙読み比べ」を立ち上げ)、② 発行部数の割に負担の重い地方の販売業務で協力、③ 大災害時の新聞発行で相互協力、を進めることになった。これによって経営基盤を強化してIT時代を乗り切るとともに、同じ全国紙の毎日、産経および東京(中日)を含めた地方紙を引き離して新聞界における3紙の寡占体制を築こうという戦略である。

3社の頭文字をとってANYと呼ばれたこのグループ結成は、2005年に読売グループ会長・主筆に上り詰めた渡邉氏が仕掛け、日経が応じ、朝日を誘い込んだという見方が支配的だ。これに一番敏感に反応したのが毎日だった。2010年4月、共同通信の加盟社に復帰する。毎日は苦しい経営の中で共同通信のニュースに依存できるところは取材体制を整理、縮小して費用対効果の高い重点取材へと切り替え、独自の紙面づくりに力を注いで全国紙として生き延びる選択をした。

2012年3月には朝日と読売が共同通信から配信を受けていたスポーツを含む国際ニュース、プロ野球、Jリーグ、国体・インターハイなど国内外のスポーツ記録の受信契約を解約した(株価データの受信契約は継続)。狙いは言うまでもなく共同・地方紙連合の弱体化である。両紙は共同通信の配信に代わるスポーツ・データ処理システムを時事通信の協力を得て構築したとしている。新聞界は朝日・読売・日経3社グループ対共同・毎日・地方紙グループに2分された。産経新聞は保守化路線で読売を右側から後押ししてきたが、ANY連携に入れてもらえない。孤立した産経がどこへ行くのだろうか。

「ナベツネ」の歴史観

日本の保守化をリードしようとする渡邉氏の覇権戦略は、こうして着々と成功を収めてきたように見える。だが奇妙なことに、実は渡邉氏の歴史観は朝日リベラリズムを否定する読売や産経の紙面にみる保守主義とは相いれないことが明確になってきた。小泉首相の靖国訪問で中国、韓国との関係が悪化し、反中・反韓報道が高まっていた2005年8月、読売新聞は渡邉主筆の指示で「戦争責任を明らかにする」ための1年間におよぶ長期連載シリーズを開始(連載終了後、中央公論社から「検証 戦争責任」として出版)、2006年1月には朝日発行の雑誌『論座』で渡邉主筆が朝日論説主幹・若宮敬文氏と対談、日本を侵略戦争に引き込み、多大な犠牲を強いたA級戦犯が合祀されている靖国神社に小泉首相が参拝したことを強く批判した。

渡邉氏は靖国問題で中国や韓国を敵にするのは、もういい加減にしてくれと言い切り、南京大虐殺の犠牲者を30万人というのは多すぎるだろうが、3千人であろうと3万人であろうと虐殺であることに変わりはないと発言した。

「読売と朝日が突然、歴史問題で共闘を組んだのか?・・・」-対談は保守派の間に混乱を引き起こし、読売の記者の中には困惑を隠せない人もいた。国際的にも驚きで迎えられ、ニューヨーク・タイムズ紙や北京週報が渡邉氏のインタビューを掲載した。若宮氏は対談を取り上げた本紙の記事の中で、渡邉氏は自分がリードしてきた保守化が行きすぎて右傾化になり、「危険水域に入った」のでブレーキ掛けに出たとコメントした。

「従軍慰安婦強制」の誤報を取り消した朝日特集で週刊文春や週刊新潮など週刊誌を先頭に「朝日叩き」が燃え上がっていたこの夏、渡邉氏は週刊文春を発行する文芸春秋社の月刊文芸春秋9月号に「安倍首相に伝えたい『わが体験的靖国論』」と題して寄稿し、『論座』対談で示した自らの歴史観をさらに詳しく展開した。

寄稿の中で渡邉氏は、国際社会は第一次大戦の反省から1928年パリ不戦条約を締結、日本も批准していると指摘、これ以後の日本の戦争は条約違反の侵略戦争と断じ、これを「昭和戦争」と呼称する。1928年は済南事件、第2次山東出兵、張作霖爆殺が起きた年で、このあと盧溝橋事件、柳条湖事件と「軍部の無謀な戦争拡大」によって日本は大戦争へと「暴走」していく。

渡邉氏はこの「勝ち目のない戦争」に突っ込み、「何百万人もの犠牲者を出しながら戦争を継続し、敗戦が確定したのに降伏をためらって原爆投下やソ連参戦を招いた責任」を厳しく追及する。靖国神社は神社本庁に属さず、神職資格も持たない旧軍人の宮司が戦争責任者であるA級戦犯を強引かつ密かに合祀、A級戦犯の分祀を「迷信に近いような屁理屈」で拒否していると非難、千鳥ケ淵戦没墓苑を「国民的な慰霊碑」にすることも一案としている。

寄稿は「聖戦とか英霊という言葉を美化する」ために「しばしば玉砕や特攻作戦が必要以上に美化されている」と言う。特攻作戦は「兵士の自発的意志を尊重」することになっていたが、「事実上はほとんど強制的な命令によって、実行した兵士の意に反して行われたケース」が少なくなかった、「玉砕」という言葉は「非人間的な残虐な作戦を美化するために発明された」と述べ、その由来は「生きて俘囚の辱めを受けず」とした東条英樹陸軍大臣(当時)の「戦陣訓」にあるとみる。捕虜は国際法で保護されていて先進諸国では「名誉の捕虜」といわれると指摘し、「極めて非人道的」で「犠牲者の霊」のためにも許されるべきではないと戦陣訓に激しい非難を突き付けている。

渡邉氏は自分のような戦争を知る世代が少なくなっていることに危機感を感じているようだ。その歴史観は戦争世代の多くが共感するのではないか。リベラル朝日のそれともほとんど重なっていると思う。

渡邉氏が朝日叩きのさなかに、週刊文春と同系列の文芸春秋誌でこうした歴史観を発表したのは、重い意味を込めてのことだったとみるのが自然だろう。『論座』対談で渡邉氏は過激な右翼化に走り出した「保守化」にブレーキをかけたとする若宮氏の見方に立てば、それから8年たって渡邉氏はブレーキをさらに深く踏み込んだものと思われる。このブレーキは効くのだろうか。

かねこ・あつお

東京大学文学部卒。共同通信サイゴン支局長、ワシントン支局長、国際局長、常務理事を歴任。大阪国際大学教授・学長を務める。専攻は米国外交、国際関係論、メディア論。著書に『国際報道最前線』(リベルタ出版)、『世界を不幸にする原爆カード』(明石書店)など。現在、カンボジア教育支援基金会長。

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