特集●次の時代 次の思考 Ⅲ

『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫)を読む

新自由主義の暴走は止められるか

グローバル総研所長 小林 良暢

今年、アメリカでトマ・ピケティの『21世紀の資本論』が売れて話題になった。日本でも、水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』が、公称20万部に迫るベストセラーになっている。

経済の専門書にもかかわらず、この2冊がベストセラーになったのは、前者が「21世紀に入って資本の収益が労働収入を上回るペースで増大し、格差拡大は資本主義の宿命だ」とし、後者も「世界的な金利ゼロで資本主義は終焉する」という、いずれも単純明快なメッセージを発したことが、多くの人々に受け入れられたからだろう(ピケティの本は年末に刊行される予定)。

利潤率の低下

水野氏は、講演やテレビの雑誌のコメントで、資本主義の終焉について「早く終わらせなければいけないとは思っています」と答えている。では、なぜ早く終わらせた方がいいかというと、「利子率がゼロになったから」だと言う。利子率ゼロということは、資本の自己増殖ができないということで、利潤極大化を目指しても、それが実現しないということであり、これはもう資本主義でなくなりつつあるからだ。

先進国の利子率の基準レートであるアメリカの長期国債、イギリス永久国債、日本の10年物国債の推移をみると、第2次大戦後は上昇トレンドをたどったが、1974年に日本が11.7%、イギリスも同年に14.2%のピークをつけ、アメリカも81年に13.9%をつけた後は、いずれも断続的な低下傾向をたどっている。

この利子率の傾向的低落の先鞭をつけた我が日本、その10年国債の利回りは1997年に2.0%を下回った。さらに2000年代に入ると、とくにリーマンショック以降はアメリカ、イギリス、ドイツなどの先進国も、10年国債がそろって2%を下回る低金利時代にはいった。

これを、水野氏は「利子率革命」という経済用語を使って説明している。利子率とは、投資に対するリターンである。資本家は企業に投資するか、国債を購入するかを選択して運用する。とすると、リスクを回避するために、投資家は企業の発行する社債利回りと国債利回りの間で裁定するので、国債利回りと社債利回りはおおむね等しくなり、したがって企業利潤率は国債利回りに一定の信用コスト(倒産リスク)を加えたものと等しくなる。つまり、利子率が2%以下になるということは、資本投下して工場やオフィスビルをつくったりして得られるリターンが年率換算で実質2%以下になるということである、と水野氏は言う。

こうなると、投資家が実物投資をしても、満足するようなリターンを得られる投資機会が少なくなることを意味する。利子率=利潤率が2%を下回れば、資本側のリスクを差し引くと得るものはほぼゼロである。そうした超低金利が10年を超えて続くと、既存の経済・社会システムはもはや維持できない。水野氏は、「これこそが『利子率革命』が『革命』たるゆえんです」と言う。

現代資本主義とりわけ先進資本主義国の危機を、「利子率の低下」を通して捉えることが、水野氏の理論を理解する第1のキーワードである。水野氏の著書の集英社新書の創刊15周フェアの新聞広告で、佐藤優氏が「利子率をキーワードにして、資本主義システムの危機について解明した名著」という推薦の言葉を寄せているが、この評価はまことに正鵠を射たものである。

資本の利潤率の歴史的な統計がとれるのは、せいぜい400年余りだろうが、利子率の方は古代ローマまで遡ることが可能だ。この長期の利子率の長期的な変遷を通じて、ローマからスペイン、また北欧からイギリス、そしてアメリカへの経済社会システムと政治的覇権の変遷を織り込んでいるところが、読み物として、またお話として面白いところである。

そして今、日本が長期金利0.5%を切っているのを先駆けとして、世界はイタリア、フランス、さらにドイツも事実上ゼロ金利まで近づきつつあり、EU中央銀行ではマイナス金利が発生して、正真正銘の「ゼロ金利」の時代に突入した。

このような資本利潤率の著しく低い状態の長期化は、企業が経済活動をしていくうえで、設備投資をしても、十分な利潤を生み出さない、つまり「過剰」な設備になってしまうことを意味している。これは言い換えれば、企業が経済活動をしていくための必要最低限の資本蓄積ができず、拡大再生産もできないということになる。だからといって、すぐにも「資本主義が終焉する」のかというと、そうはいかない。

「周辺」からのリターン

そこで水野氏は、アメリカをはじめとする現代の資本主義の苦悩を考えるときに、少しばかり「迂遠なようですが」という断りをいれて、資本主義の歴史を振り返り、中世イタリアに「終焉」をもたらした17世紀の利子率革命に話を転ずる。

16世紀のイタリアは全土をワイン畑にした。当時のワイン産業は最先端産業である。山のてっぺんまでワイン畑にするくらいの資本力があった。この時代にイタリアは大寺院を100年200年かけても作った。イタリアは、今ではワインと観光でそれなりにG7のグループに入っているが、その時の遺産で食っているということである。

しかし、16世紀の半ばから利子率がどんどん下落し始め、ついに1%まで下がつた。これはワイン畑に投資しても、もはや1%しかリターンが得られないことを意味する。イタリアは12世紀に利子率6~8%からスタートしたが、最後は1%になって終わる。これは偶然ではなくて、この時代の最後の1555年に、ローマから離れたドイツでのアウクスブルクの宗教和議で、ローマへの仕送りがなくなり、イギリスもイギリス国教会という形でローマから独立した。これは宗主国ローマからみれば、「周辺」地域からの上がりがどんどん小さくなっていくということである。

ここで水野理論の第2のキーワード「周辺」が登場する。そのポイントは、「周辺」からの仕送り・上がり、これを収奪、超過利潤と呼ぶかはそれぞれの勝手であるが、要するにリターンが限りなくゼロに近づいてイタリア・ローマが「終焉」を迎えたということである。

資本主義の終焉

その上で、水野氏はアメリカ、新興国、日本、欧州という順序で、それぞれの経済のなかで、どれほど資本主義の矛盾が蓄積しているか、資本主義そのものが「終焉」の一歩手前まで蓄積していることの言及に入る。

それについて、まず資本主義とは何か、ということを確認する。水野氏によれば、資本主義の本質は「中心/周辺」という分割にもとづいて、富やマネーを「周辺」から「蒐集」し、「中心」に集中させることである。ヨーロッパの資本主義を例にとれば、「周辺」からの「蒐集」のシステムとして、重商主義であったり、自由貿易主義であったり、帝国主義であったり植民地主義であったりと変化してきた。そして、現代はIT・金融の技術が飛躍的に進歩し、金融の自由化が行き渡った時代であり、21世紀は、グローバリゼーションこそが資本主義の動脈と言える。

1870年から2001年までの130年間は、高所得国の人口シェアが、ずっと15%で推移している。先進資本主義のグローバリゼーションとは、先進国の15%の人々が、残りの85%から資源を安く輸入して、その利益を享受してきた。言い換えると、地球の全人口のうちの約15%が豊かな生活を享受することができた時代である。この15%は、ヨーロッパ的資本主義を採用した国々で、当然アメリカや日本もそこに含まれるが、日本の「一億総中流」が実現できたのもこの時代だと、水野氏は言うのである。

しかし逆に言うと、この15%クラブは、世界総人口のうち豊かになれる上限定員は15%前後であることを物語っており、歴史を振り返れば、資本主義が決して世界のすべての人を豊かにできる仕組みではないことが明らかだという。

そしてグローバル資本主義も、「中心/周辺」を生み出していくシステムだといえる。しかも、資本主義は資本が自己増殖するプロセスなので、利潤を求めて新たなる「周辺」を生み出そうとする。しかし、「現代の先進国には、もう海外に『周辺』はありません」と書いている。水野氏は、講演やテレビで、残る「周辺」はアフリカだけになってしまったと言っている。

この指摘にはまったく同感である。ここで一言付け加えることが許されれば、この最後の「周辺」アフリカに、これまで「周辺」であった中国が怒涛の如く乗り込み、アフリカは中国だけの「周辺」の感を呈し、これはもうシステムを救うものではない。

暴走する資本主義「電子・金融空間」

そこで、水野氏はちょっとばかり横道に逸れ、我が国の左派論壇の一翼を占めている現代資本主義の「長期停滞論」にふれる。氏の結論は、「私たちはそろそろ、生き延びるという前提で説かれる『長期停滞論』にも決別しなければならない時期に差し掛かっています」という。すでに説明したように、現代はもう「周辺」が残されていないから、資本の自己増殖と利潤の極大化を求めるために「周辺」を必要とする資本主義は、暴走するか否か、停滞が長期か短期かにかかわらず、いずれ必ず終焉を迎えるということは明らかで、「長期停滞論」では資本主義の危機が見えなくなってしまう。この批判は同感である。

それでも現代資本主義は、延命を図ろうとする。「地理的・物的空間」がダメなのだから、それに代わる別の「空間」を生み出す。それを水野氏は「電子・金融空間」であるという。IT(情報技術)と金融自由化が結合してつくられる空間で、「電子・金融空間」が、第3のキーワードである。

ITと金融業が結びつくことで、資本は瞬時にして国境を越え、キャピタル・ゲインを稼ぎ出すことができるようになり、その結果金融業への利益集中が進み、アメリカの利潤と所得を生み出す中心的な場となる。また、ニクソン・ショックの1971年は、インテルが今のPCやスマ-トフォンに不可決なCPUを開発し、これが「電子・金融空間」の元年だと、水野氏は位置づける。それで、1980年代以降の資本主義は一時的な活況を迎え、延命が図られたが、その後は周期的な金融危機と4年毎のIT不況に見舞われる。

これについて付言すると、この延命策のプレーヤーはもちろんアメリカであるが、それに日本がタッグを組む形で「電子・金融空間」の帝国化が進展するが、21世紀になると日本に代わって中国とタッグを組む形に変身する。G2=米中二大国が「電子・金融空間」の世界覇権を目論むことになる。先だっての北京のAPECでの米中首脳会談で、IT関税の引き下げが合意されたが、金融の方は中国は資産大国だが、市場での信頼に欠けるために、まだまだ及ばない分野で、「電子・金融空間」よる資本主義の延命も片肺飛行である。

最後のキーワードは「終焉」である

2008年のリーマン・ショックを経て、ようやく新自由主義が唱導する資本主義に警鐘を鳴らす声が聞こえるようになってきてはいるが、依然として金融バブルを煽る緩和政策を取り続けている。

むしろ、この5年間、資本主義の終焉のハード・ランディング・シナリオが登場している。この点について、水野氏は、巨大な中国の過剰バブルが世界を揺るがすとの見方を示している。その代表例が粗鋼生産能力だという。2013年の中国の粗鋼生産量は7.8億tだったが、中国の生産能力は10億tある。22%ほどの生産能力が過剰、「世界の工場」と言われる中国であるが、輸出先の欧米の消費は縮小しており、この先1990年代から2000年代前半までのような消費を見込むことは不可能なので、いずれこの過剰な設備投資は回収不能となり、やがてバブルが崩壊する。

中国でバブルが崩壊した場合、海外資本、国内資本いずれも海外に逃避、そこで中国は外貨準備として保有しているアメリカ国債を売る。中国の外貨準備高は世界一だから、その中国がアメリカ国債を手放すならば、ドルの終焉をも招く可能性すらあり、ハード・ランディングするというご託宣である。

しかし、資本主義の暴走にブレーキをかけながらソフト・ランディングをする道もあると言う。グローバル資本主義の暴走にブレーキをかけるために、現在の国民国家はあまりにも無力で、世界国家、世界政府というものが想定しにくい以上、少なくともG20が連帯して、巨大企業に対抗する必要がある。具体的には法人税の引き下げ競争に歯止めをかける必要がある。

水野氏のシナリオは、国際的な金融取引に課税するトービン税のような仕組みを導入したり、そこで徴収した税金は、食糧危機や環境危機が起きている地域に還元することで、国境を越えた分配機能をもたせるようにすることを提起する。G20で世界GDPの86.8%を占めるから、G20で合意ができれば、巨大企業に対抗することも可能だと、結んでいる。

どうなるポスト「終焉」の社会?

水野氏は講演会などで、「資本主義が『終焉』した後、どのような経済社会になるのですか」と聞かれると、「私にはわかりません」と答える。でも、著作の端々に氏の考えがあるのだろうと、資本主義の暴走にブレーキをかけた経済学者・思想家に言及している論述の中からそのヒントを探ることにした。

まずアダム・スミスについて、『道徳感情論』でお金持ちがより多くの富を求めるのは「徳の道」から堕落すると説いたと言う。カール・マルクスについては、『資本論』で資本家の搾取こそ利潤の源泉であることを見抜き、失業は市場で解決できるとはせず、政府が責任をもつべきと主張した。マルクスのブレーキは、19世紀半ばからソビエト連邦解体までは効き目があったとする。

代わって、ジョン・メイナード・ケインズが偉大な資本主義のブレーキ役になり、そのエピゴーネンらが1972年ぐらいまではもちこたえることができた。しかし、オイル・ショックが起き、スタグフレーションになって、ケインズ政策の有効性が疑われるようになると、代わって、あらゆるブレーキを外そうと主張しはじめたミルトン・フリードマンやフリドリヒ・ハイエクなどの新自由主義が旗振り役となって暴走が始まる。

さらに、21世紀のグローバル資本主義は、その延長上を暴走し続け、いわばブレーキがきかない資本主義と化している。

以上を、やや乱暴に整理すると、ひとつは「多くの富」の否定、「搾取」の廃絶、「政府の政策の有効性」を通じて「ブレーキ」すなわち市場をコントロール(制御)する理論的な流れ、いまひとつは「政策の有効性」を疑い、制御のブレーキを外して市場に委ねる流れである。もちろん水野氏は前者の流れに沿ってグローバル資本主義にブレーキをかける(制御する)ことを通じて、その延長線上にポスト「終焉」の経済社会を考えておられるのだろう。結局は、国家や政府の政策による市場の制御が可能か、それとも市場に委ねるしかないと考えるかが分かれ道である。最後に、「お前の考えはどっちの流れなのか」と聞かれれば、心情的には前者の流れに惹かれるものがありつつも、現実的には中間より後者の流れにやや近く立つ。皆さんはいかがだろうか。

【参考文献】

・水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書、2014年)

・同  『世界経済の大潮流』(太田出版、2012年)

・拙 稿 「資本主義の終焉をソフトランディングさせるために」(FORUM OPINION、vol25、2014.7.)

・BSフジ・プライムNEWS「日本経済の低迷は“資本主義の限界”か」(21.04.4029)

こばやし・よしのぶ

1965年法政大学大学院修士課程修了、電機労連企画部部長、連合総研主幹研究員、現代総研常任理事を経て、グローバル産業雇用研究所を設立して所長。著書に『なぜ雇用格差はなくならないのか』(日本経済新聞出版社、2009年)

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