連載●シリーズ「抗う人」⑬

朝鮮戦争に抗い、朝鮮分断に抗う~金時鐘

ジャーナリスト 西村 秀樹

敗戦後70年、日本はいま集団的自衛権の行使へ憲法解釈変更など大きな曲がり角に立つ。敗戦後初の曲がり角は朝鮮戦争。再軍備、基地国家、アメリカ従属国家の原点だ。朝鮮戦争当時、日本国内で戦争に抗った反戦リーダーの一人、在日朝鮮人の詩人金時鐘が重い口を開いた(文中敬称略)

【韓国済州島に墓参り】

敗戦70年を前に、金時鐘(キム・シジョン)から韓国済州島の墓参りに誘われ、わたしは同行することになった。今年6月はじめ、梅雨前線をなんとかやりすごし、晴れ間に恵まれ、少し汗ばむ天候であった。

金時鐘の父母の墓は済州空港に程近い。草むらをかき分け進むと、少し空が明るくなった一画に両親の墓があった。墓には「不肖子」と刻まれていた。朝鮮分断のため故郷を訪れることがかなわず長い不在をわびてのことであろうが、儒教社会の韓国で親の墓にあえて「不肖子」の文字を刻む、否、刻まざるを得なかったというのがより正確な表現だろうか。その墓に刻まれた文字に、わたしの胸は揺さぶられる。

詩人の背中がしずかに揺れた。東アジアの現代史の過酷さを背負った詩人の運命に思いを馳せる。

【植民地の皇国少年】

金時鐘は1929年生まれ、昭和でいうと4年。世界恐慌がこの年。

植民地下の朝鮮で金時鐘は皇国少年として育つ。日本が敗けた後、アメリカの朝鮮への植民地政策に抗い南朝鮮労働党員として活動。済州島4・3事件で苛烈な弾圧の中、命からがら日本に政治亡命。日本国内では日本共産党民族対策部の指導の下、朝鮮戦争への反戦運動、三大騒擾事件の一つ、吹田事件のリーダーとして現場で活躍。朝鮮総連で文化活動に従事するも、組織から批判された経歴をもつ。

4・3事件犠牲者慰霊祭で講演する金時鐘。ときに涙ぐみ、ときに火を噴く(大阪・生野区で今年4月。筆者写す)

毎日出版文化賞受賞を祝うパーティで、思想家鶴見俊輔はこの詩人の作品を「日本語で書かれた世界文学である」と評した。「日本」と対峙することを余儀なくされながら、在日朝鮮人の存在を問う地平を体現している。

金時鐘の生まれは、朝鮮の港湾都市釜山(プサン)。朝鮮が、帝国主義を標榜する大日本帝国の植民地になって19年目のこと。育ったのは済州島北部の港町済州(チェジュ)市中心部。父は港湾の築港工事の関係で済州島に、母は一等の目抜き通りで大衆食堂と料理店を営んだ。

多感なセブンティーン17歳、日本の敗戦を迎える。植民地朝鮮の人びとにとっては解放だった。光がよみがえるという意味で「光復節」=1945年8月15日、金時鐘はこう迎えた。

「ぎらついたあの異変の日の、玉音放送に身をふるわせた衝撃は、つい先日のように刻まれています。まぶしいまでに晴れわたった、いやにしずかな正午でした。

天皇陛下じきじきの大事な放送は、敗戦受諾の放送と知り、天皇陛下への申し訳なさに胸がつまって肩ふるわせむせびました。けっして誇張ではなく、立ったまま地の底へぬめりこんでいくようでした。それでも私はいまに神風が吹くと、敗戦の事態もまた変わってゆくと、何日も自分に言い聞かせていたほどに、度し難いとしか言いようのない正体不明の朝鮮人でした」(『朝鮮と日本に生きる〜済州島から猪飼野へ』岩波新書)

【皇国少年から南朝鮮労働党員へ】

ドイツは分断されたのに日本は分断されず、なぜ植民地だった朝鮮が分断されたのか。これは、アメリカの現代史学者、ブルース・カミングスが自著『朝鮮戦争の起源』に書いたエピソードだ。シカゴ大学で教え子が質問し、教師カミングスはその問いに答える形で本を著したという(もっとも、沖縄の友人によれば、第二次大戦の後、日本は沖縄と本土に分断されたと苦笑混じりに論難したが)。

なぜ朝鮮が分断されたのか。直接のきっかけは、1945年8月9日、ソ連赤軍が満蒙国境を越えて南下を始めたので、アメリカ政府はあわててモスクワと交渉し、北緯38度線で米ソの占領地域を分割、朝鮮半島の南北分断で双方折り合ったのがそもそもの始まりだ。しかし、大日本帝国の軍事的な敗北はもっと早い時期に決定的になっており、そうした時期に日本が降伏を決めていれば、朝鮮分断はなかったわけで、日本の戦争の終わり方にこそ大きな責任がある。当時の政府の最大関心事は「国体護持」。天皇制を守るために、東京や大阪など各地への大空襲、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下、朝鮮分断と、市民の犠牲が強いられた。

済州島は1948年におきた4・3事件の舞台である。事件の背景には、アメリカの植民地政策があった。1910年大日本帝国による韓国併合以来36年間の植民地支配につづき、日本の敗戦後、朝鮮の北半分がソ連、南半分はアメリカの影響下に置かれた。1948年アメリカが南朝鮮だけの単独選挙を試みる。単独選挙強行となれば朝鮮の分断が決定的になる。済州島の民衆はアメリカの植民地主義に抗い、4月3日武装蜂起した。左翼ゲリラは島の中央部にそびえる火山・漢拏(ハルラ)山のふもとにゲリラの拠点を構え、南朝鮮当局は抵抗を共産主義者の陰謀だと決めつけ、討伐隊を派遣し左翼ゲリラばかりか無垢な民衆をも殺害した。殺し殺される。当時20万人の人口に対し、殺された民衆の数は韓国政府の公式発表で3万人、金時鐘の推測では5万人にのぼるという。この年、8月には大韓民国が、9月には朝鮮民主主義人民共和国がそれぞれ独立を宣言する。激動の年であった。

金時鐘は南朝鮮労働党に入る。1948年1月、金は党幹部からの指示に従って、済州道の教員養成所の事務職嘱託に採用される。主な任務はレポ要員。連絡手段の電話、電信の確保のため、済州中央郵便局への「浸透」を命じられる。毎日の郵便物の配送で郵便課の窓口職員だけでなく、歌声運動などを通して電信電話課の職員たちとも親しくなっていった。ストレスから「多発性神経炎」を患い、何か緊張すると頭皮がちくちくと刺すように痛くなったり、顔がほてるようになった。道立病院に通うようになると、その診察券が身分証替わりになり、病院が党の連絡拠点になっていった。

【済州島4・3事件】

金時鐘の運命を決める済州中央郵便局事件が起きた。

1948年5月末、中央郵便局の集配課に労働党の連絡係の同志が二人いた。この二人がある日当局側から突然呼び出され公道で撃ち殺されてしまう。その報復を緊急グループで会議討議した。決定された報復策は、郵便局に積み上げられている、右翼・討伐特攻隊や警備員たちから家族宛ての郵便物や為替を燃やすという直接行動であった。金ともう一人Hが実行役に決まった。なぜHが火炎瓶を投げる役目かというと、実はグループに所属する党員名簿が警察の手に渡るという事件がおき、Hはその裏切りを疑われていた。

事件当日、金時鐘は教員養成所の事務職嘱託の顔なじみとしていつものようにひと抱えの郵便物を集配課に持ち込む。その大量の郵便物に混じって火炎瓶もいっしょに持ち込み、かねて昵懇の集配課の窓口係に引き渡す。金と入れ替わりに、火炎瓶を投げる役目のHが切手を買うふりをして窓口にやってきた。

Hは窓口の脇においてある火炎瓶に手を伸ばしてとりあげたものの、Hの従兄弟がたまたま集配した郵便物の横にいた。そのため、Hは火炎瓶の包みを差し上げたまま、わけもわからぬ声で絶叫したものだから、局内にいた警備の警官がカービン銃をかまえて駆けよってきた。Hが逃げながら放った火炎瓶はさほどの発火もせず、白い煙と臭いだけが立ちこめた。

「よく打ち合わせてはいたのですが、人間、恐怖に陥るとわからなくようです。引かなければ出られないのに、必死に押しているのです。それこそこぶし大に見開いたあの真っ白いHの眼が、まざまざと私の脳裡に焼き付きました。迫ってきた警官が至近距離からカービン銃を連射し、後頭部を吹き飛ばされたHはそのドアにしがみついたまま絶命しました。まるで握りつぶした豆腐のように、脳味噌がひび割れたガラスに筋を引いて垂れていきました」

すぐに大勢の警察官が駆けつける。金はすぐに現場から離れ、北国民学校正面近くの昵懇の家に二日間かくまってもらった。その後、友人がジープでかけつけ逃亡を助け、済州島内のアメリカ軍キャンプにハウス・ボーイとして住み込めるように段取りを整えてくれたという。

私は金時鐘から済州島中央郵便局事件のあらましを以前に聞いてはいたが、数年前、いっしょに済州島を旅行した際に泊まって宿舎が、ちょうど中央郵便局の真正面に位置した。郵便局の場所は当時もいまも同じ。ここが中央郵便局、ここが北国民学校(いまは北小学校)、そしてここが母親の営んだ料理屋の跡地と、説明を受けた。それらは歩いて数分の距離というきわめて近い場所にあることにびっくりした。

夕方、チェジュの海岸をいっしょに散歩したが、ここは4・3事件当時、明け方になると両手両足を拘束された遺体が波にもまれながら打ち上げられた。行方不明者のいる多くの島民が毎朝、海岸に探しにきたという。その話を、海岸を歩きながら直に聞かされた。チェジュの海岸に寄せる潮騒に、討伐隊から拷問を受け両手をしばられた遺体が打ち寄せる音までが聞こえてきた。

【日本に政治亡命】

灯台下暗しとはこのことか、金時鐘はアメリカ軍のキャンプでハウス・ボーイとして身を隠した。が、その契約も9月には切れた。知人の家、さらには母の実家近くの叔父貴宅にかくまわれた。地区の区長をつとめる叔父貴宅には警官の上役が出入りし、もてなすと武装隊には討伐隊に肩入れしているかのように誤解されたのか、叔父は武装隊によって殺されてしまう。1949年2月のこと。

「明け方襲ってきた武装隊に腹部を二か所も竹槍で刺された叔父貴は、腸をはみださせたまま裏の石垣をよじのぼってその裏の小道に落ちました。それでもすぐには死ななくて、七転八倒の苦しみが三日もつづきました。わめき声やアイゴーの嘆き声が、私が隠れているすぐそこの向こう側でひびいていました。100日もつづいているような、耐えがたい怨嗟でした」(岩波新書)

やっと5月26日、父親の奔走で済州島を脱出する段取りがついた。まずは、チェジュ市の北、30キロにある岩山クァンタルという無人島に逃げる。

今回の済州島旅行からチェジュ空港で帰りの飛行機を待つ間、金時鐘のお連れ合いが空港から「あれがそうなの」とかすかに見える小さな島を指さした。空港から指さされたその島は、見るからに心許ない、小さな岩の塊にすぎなかった。

金時鐘の脱出ルートは、その島までは討伐隊への食料を供給するための漁船に潜り込ませてもらう段取りであった。父親がそっと荷物を預けた。水の入った竹筒、非常食の炒り豆(大豆を砂糖で固めた)の入ったアルミ弁当の手提げ。もう一つ、日本の五十銭紙幣を詰めてあるゴム水筒、それに着換用の学生服を油紙に密閉した包みであった。

父親は別れ際、こう言ったという。

「あとの船の手筈も整っている。明後日のいま時分、岩場の近くまで船が寄ってくれるはずだ。あとひとふんばりがんばって耐えてくれ。
これは最後の頼みでもある。たとえ死んでも、ワシの目の届くところだけは死んでくれるな。お母さんも同じ思いだ」(岩波新書)。

【猪飼野へ】

チェジュ市の北にあるクァンタルという無人島には、二隻目の密航船が迎えに来た。ただし予定より遅れて四日後のことであった。密航船は五島列島を越え、一時、豪雨でエンジンが止まった。やがて小雨となり鹿児島沖で焼き玉がなんとか発火し、ポンポンとエンジン音が響きだした。6月5日の昼間には、瀬戸内海に到達した。真夜中をすぎ、ようやく夜も明けるころ、船は明かりを消して「渚ちかくまで松林がつづいている浜の、浅瀬ぎりぎりまで入りこんで止まりました」。どうも神戸の西、舞子海岸であったという。

やがて登山帽にセルという上等な生地でできた学生服に着替えた。鉄道で神戸から大阪へ。さらに、城東線(のちの大阪環状線)で、ようやく朝鮮人の多住地域の生野区の玄関口、鶴橋にたどり着く。

猪飼野(いまは地名から消えた)は、いまでも四人に一人が在日コリアン。

21世紀に入ると、在特会という排外主義のグループが「朝鮮人は息をするな」とヘイトスピーチをまき散らす。その猪飼野にようやくたどり着いた。偶然、密航船の同行者と街で出くわし、彼の手助けで、猪飼野にあるローソクを作る零細工場に住み込みで働くことになる。こうして日本での暮らしがスタートした。

秋口になり電力事情の改善とともにローソクの需要はなくなり、年末には通称鶏舎長屋とよばれるバラック建ての長屋に引っ越す。乳飲み子と四つの幼女をかかえた中年夫婦の一間に、下宿することとなった。十数世帯が暮らす長屋に、共同水道の蛇口は一つ。便所も一つ。大雨の日、汲み取り口からあふれた汚水があふれる、在日朝鮮人のどん底の集落であったという。布施市(現在の東大阪市)にある石鹸工場で働く。

【日本共産党員に】

日本に亡命して半年余りが経過(1950年1月)、日本共産党への集団入党が地区単位でできるとの報せが届き、金時鐘は党員になる。

在日朝鮮人の運動は、敗戦の年の10月、朝連(在日朝鮮人連盟)結成でスタート。スローガンは、在留同胞の生活安定など、生活に根ざしたものが多かった。しかし1949年9月、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は団体等規正令によって、強制解散させた。朝連が占領軍に反対するとの理由だった。

連合国の占領政策は、はじめのうち、財閥解体や農地改革など日本の民主化を推し進めるものが多かったが、やがて米ソの冷戦激化に伴い、共産主義に反対する反共政策へと舵を取る。在日朝鮮人の運動もはじめはGHQから尊重されたが、GHQの方針転換によって右に左にほんろうされる。

金時鐘が日本共産党に入党した1950年は、そうした激動の年にあたった。

同じ年の1月、日本共産党はコミンフォルム(国際共産党情報局)からの批判を受けて、国際派と所感派とに分裂。背景に日本国内での武装闘争をめぐる評価の違いがあった。その日本共産党は、6月機関紙アカハタの停刊が命じられ、7月朝連と同じように団体等規正令により非合法化された。朝鮮半島で戦争が勃発したのはその最中の6月25日未明のことである。

金時鐘は2月末石鹸工場を辞め、活動家というか、革命家の道をすすむ。生野区中川にあった、民戦(在日朝鮮民主統一戦線)の大阪府本部(とはいってもまだ臨時事務所であったが)に非常任で詰めるようになる。はじめは文化運動、やがて民族学校=朝鮮学校の再建を任務とすることになる。

この時期、大切なことは、金時鐘が日本の詩人小野十三郎と出会うことだ。大阪の繁華街、道頓堀にある古書店・天牛書店で小野の評論『詩論』を買い、衝撃を受ける。

「そのときのとまどいと衝撃は、その後の私を決定づけてしまったと言っていいくらいのものでした。私と、父、母、同族をも損ねてきた『日本語』が、日本の詩人の言葉によって洗い流されたことは、なににもまして幸いなことでありました。私はそのことによって自己の内部に巣食っている『日本』との対峙を新たにすることができましたし、『日本語』に関わることの意味を、朝鮮人でありつづけることのよすがに据えることもできました」(岩波新書)

【朝鮮戦争と日本】

朝鮮戦争の勃発を金時鐘は大阪の南部に向かう途中、駅のコンコースに貼られた新聞の号外で知る。

「正直言って興奮しました。これで南朝鮮の反共の殺戮者どもが一掃されると、恥ずかしいかぎりですが抑えがたい感動にすら駆られた私でした。生身が覚えている狂暴なアカ狩りの記憶が、一挙に憤激となって突き上がってきたのです」(岩波新書)

朝鮮戦争当時、日本国内がどのようであったのか、実は余り知られていない。なぜなら、連合国に占領されていて「報道管制」がしかれていたからだ。

キーワードは、武器輸出、基地国家、朝鮮特需、そして戦後初めての「戦死者」。

この時期、日本国内はアメリカ軍の不沈空母ならぬ、基地国家の体を急速に整える。GHQは日本政府に対し再軍備を求め、警察予備隊が発足する。金時鐘が暮らす関西地方でも、現在の大阪空港はアメリカ空軍のイタミ・エアベースとして、ここから朝鮮半島に向け、アメリカ軍の戦闘機や爆撃機、武器弾薬を運ぶ輸送機が連日飛び立っていた。神戸港にはアメリカ軍の補給基地が作られ、近畿各地で作られた武器弾薬が東海道線で運ばれ船で朝鮮半島に送られた。日本経済は息を吹き返す。朝鮮特需だ。

「日本人の戦死者」が出たことも案外知られていない。戦前、日本海軍で活躍した掃海艇が、戦後は瀬戸内海でアメリカ軍がまいた機雷の掃海作業を進めていたが、朝鮮戦争勃発に伴い、アメリカ軍は日本政府に特別掃海隊の設置を働きかけた。日本政府は秘密裏に海上保安庁の掃海部隊を朝鮮海域に送りこんだ。このうちの一隻が、1950年10月17日、北朝鮮の東側の港町・元山(ウォンサン)沖で、機雷に触れ爆沈し、日本人の乗組員中谷坂太郎が死亡した。

わたしはかつて死亡した中谷坂太郎の事情を知りたくて、大阪・浪速区の実兄を訪ねたことがある。触雷事故直後、海上保安庁から実家に連絡があり、弟の死を口外するなと厳しく命令された。中谷坂太郎は、ポツダム宣言受諾後、初の日本の戦死者である。

【吹田事件】

金時鐘が日本共産党の党員になって二年目の1952年日本は独立を果たす。

サンフランシスコ講和条約は、1952年4月28日(つまり昭和天皇の誕生日前日) 発効し主権を回復する。5月1日には東京で血のメーデー事件が発生。学生労働者6000人のデモ隊が警察官5000人と衝突、警察側はデモ隊員2人を射殺し、騒擾罪を適用した。6月24日から翌25日にかけて大阪の吹田事件、7月7日には名古屋の大須事件と、日本三大騒擾事件が続く。

その吹田事件で、金時鐘は大きな役割を与えられる。以下は金時鐘の回想による。

朝鮮戦争勃発二周年の6月25日、反戦平和を実力で克ち取るため、当時東洋一と言われた国鉄吹田操車場に集まる軍事列車の運行を実力で阻止する闘争計画が練られた。

プランを立てたのは日本共産党の民族対策部のメンバーで、実行日の3か月前の3月中旬、金時鐘に総合Gから召集がかかった。総合Gというのは、地域労組や各部署の細胞キャップの主だった人たちで構成するグループ会議のこと。その席で、実力行使デモ計画が明かされた。警察の機動隊との衝突も当然のことながら予想されるので、デモ隊のしんがりの選定に時間が費やされ、結果、金時鐘が指導する中西支部がになうことが決まる。中西支部とは、在日朝鮮人の多住地域である大阪市の中西地区、つまり生野区の東はずれと東住吉区をさした。

イタミ・エアベースにほど近い、大阪大学豊中キャンパスの待兼山グラウンドが集会場に選ばれた。前夜祭の6月24日夜から翌25日にかけて、デモ隊はファイヤーストームを焚き決起集会を開いた後、一隊はイタミ・エアベースやアメリカ軍の将校住宅がある刀根山方面をめざした。もう一隊の山越え部隊と呼ばれるデモ隊は、秘密裏に国鉄吹田操車場をめざした。

金時鐘は吹田事件当日のことをつぎのように記す。

「待兼山での徹夜の前夜祭を午前0時ごろひと足先に抜け出た私は、連絡係のH君のオートバイで千里丘(引用者註:国鉄吹田操車場の東側の駅)へと山越えで向かう道すがら、別コースを別々にたどっている行動隊の現況(註:右翼の笹川良一宅や警察の交番への火炎瓶攻撃)をたしかめ、デモ隊の合流地点となっている山田村(註:現在の吹田市山田)でしんがり部隊の中西組に追いついたのが午前3時半すぎごろでした。急ぎ駆けつけてきた道いっぱいの機動隊が、白み始めた明かりのなかをびっしり、最後尾のわれわれの後を30メートルくらいの間隔でついてきました」(岩波新書)

この後、合流したデモ隊は、国鉄吹田操車場の構内を25分間デモ行進。さらに国電で吹田駅から大阪駅に向けて移動しようとしたところで、警察官がピストルを発砲し大阪大学の医学部の学生らが大腿部貫通の重傷を負った。警察と検察は、騒擾罪を適用し111人を大量に起訴したが、21年間にわたる裁判の結果、騒擾罪は日本国憲法21条「表現の自由」から無罪となった。

金時鐘は吹田事件直後、東成区の在日朝鮮人の集落にある服の仕立て屋の屋根裏部屋で夏休みが終わる8月末まで潜んで、逮捕や起訴を免れた。

【組織からの批判・離脱】

朝鮮戦争は1953年に休戦協定が結ばれ、ひとまず撃ち方やめとなった。その直後、北朝鮮から思いがけない報せが届く。金日成主席がナンバー2の朴憲永副委員長を反党分子だとして処刑したという。朴憲永はかつて南朝鮮労働党の書記長であり、金時鐘は朴憲永を尊敬してこの党員になった経緯がある。

やがて金は済州島時代、道立病院の結核病棟に潜んでいたためにうつったかもしれない腸結核などで3年間の療養生活を送る。この時期、在日朝鮮人運動はかつての朝連から朝鮮総連に模様替え、日本共産党もいわゆる六全協の自己批判(55年7月)で所感派と国際派が統一する。

そうした折、朝鮮総連から金時鐘は、反革命分子だと批判を受ける。その後も金時鐘は金日成の神格化に疑問を抱きながらも、社会主義への信奉をやめず永く朝鮮籍を維持する。日本での亡命生活を余儀なくされる間、済州島の父、母は亡くなるが、墓参りはままならなかった。

一方、韓国がどのように誕生したか、身をもって知っている金時鐘だが、その韓国は永く軍事独裁政権が続いたものの、人びとは民主化を要求して立ち上がり、一九八〇年代後半金大中大統領など民主化政権が誕生し、金時鐘も済州島への墓参がかなった。

金時鐘の父母の墓に自ら「不肖子」と刻む

金時鐘の父母の墓に自ら「不肖子」と刻む(済州島で。筆者写す)

21世紀に入り、金時鐘は朝鮮籍から韓国籍に変更する。「父、母の死後四十余年を経てようやく探し当てた親の墓を、せめて年に一、二度の墓参りぐらいはつづけようと、思い余った」と挨拶状に記す。だから済州島の墓に刻まれた「不肖子 時鐘」の文字は、東アジアの現代史を無言のうちに語る。

2011年、金時鐘は、優れた詩人に贈られる高見順賞を受けた(受賞作品は前年出版の詩集『失くした季節 金時鐘四時詩集』藤原書店)。贈呈式は折り悪く3月11日東京で開催の予定であった。千年に一度の東日本大震災に遭遇、天地もひっくりかえらんばかりの天災に、八方手を尽くして命からがら関西にたどりついた。済州島脱出以来の体験であった。

今回の墓参り旅行の最後に、私は金時鐘に自伝『朝鮮と日本に生きる』をおずおずと差出し「恥ずかしながら」とサインを求めた。金時鐘はこう書いた。 「おもねず、なびかず、大勢に流されていかず。金 時鐘」と。

抗う人生、そのものだと感じた。

にしむら・ひでき

1951年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、元毎日放送記者、近畿大学人権問題研究所客員教授。同志社大学社会学部非常勤講師。著書に『北朝鮮抑留~第十八富士山丸事件の真相』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争~吹田・枚方事件の青春群像』(岩波書店)など。

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