特集●総選挙 戦い済んで

本当の争点はどこにあるか

「自由か安全か」という二項対立に潜む陥穿

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

争点不明の総選挙

台風襲来という最悪の情況で投票日を迎えた衆議院議員総選挙は、前回に続く自民党・公明党連合政権の大勝利に終わった。しかし、大勝利に終わったはずの自公政権の側にも、大勝利にもかかわらず何かモヤモヤ感が漂っているように見える。それは、野党側の混乱に乗じた、いわば敵失による勝利という結果によるものかもしれない。

実際、野党側の混乱ぶりはひどかった。小池都知事の希望の党に相乗りしようとした民進党右派の目論見は、ただ民進党の分解をもたらしただけで、ものの見事に失敗した。小池のポピュリスト的体質を見抜けなかったことに起因するにしても、政治家たちが自己保身という個人的利害にいかに強く縛られているかという姑息な姿をさらけだすことにしかならなかった。立憲民主党が、選挙直前の結党にもかかわらず、リベラル勢力の結集に一定の役割を果たしたといっても、保守化の大勢をくいとめるにはまだ力不足の感は否めない。その意味で、ここでもモヤモヤ感が消えているわけではない。

そもそも、この総選挙は、何のために行われたのか。解散自体が唐突であったし、手続き的にも違憲の疑いの濃い七条解散で、森友・加計学園問題の追及を受ける総理大臣の個人的都合による解散という疑惑に包まれた解散であった。解散の名目として選挙直前に言い出された消費税引き上げによる財源の使用目的の変更という問題も、いかにも取ってつけたような名目であることは歴然としていた。また、解散を受けて立たざるをえなかった野党側も、政権交代のための数合わせの論理で、民進党と希望の党の合流を主張したものもいたが、憲法や安全保障という最も基本的な問題で与党とほとんど変わらない方向であることがはっきりしている以上、政権交代そのものの意味が不明というしかない選挙になってしまったのである。

今回の総選挙は、まさに争点不明の選挙だったのである。政治家たちは、とにかく自分の議席を守る、あるいは獲得するためにそれなりに必死に戦うことになった。しかし、終わってみれば、何も新しい方向性が見えてきたわけではないので、なんとなく徒労感だけが残ったという感覚が、自覚的か無自覚的かはともかく、政治家たちの心理の底にこびりついた。与野党問わず、なんとなく漂っているモヤモヤ感は、政治家たちのそんな心理の反映であろう。それも、選挙を争点の定まらない無内容な権力争いの場にしてしまった自分たち自身の「罪」の結果に他ならないのであるが。

隠された争点は何か

それでは、現在の日本の状況において問われるべき重大な争点はなかったのかといえば、そんなことはない。選挙が終わって、例の失言大臣麻生副総理が、はしなくも言った「今度の選挙で勝てたのは北朝鮮のおかげだ」という発言が、その隠された重大な争点を浮き彫りにしている。たしかに、総理大臣も、選挙での演説で、「国民と国家の安全を守れるのは我々だけだ」というようなことは言っていた。しかし、その「安全」の反対側に、戦争に巻き込まれる危険性や人々の自由を制約する可能性があることについては一言も触れることはなかった。北朝鮮が核実験やミサイル発射を繰り返している状況で、安全が脅かされている、だから日米安保体制を軸にした安全保障は重要だといっているだけで十分効果があると思っていたのであろう。ようするに不安だけを煽って、「国民と国家の安全」を守るための明確かつ具体的な方策は提起していなかった。したがって、これでは争点の提起にはならないのである。

状況からいえば、今回の総選挙で問題にされるべきは、まさに「安全」の問題であった。北朝鮮の核武装化と好戦的なトランプ大統領のアメリカ合州国とが言葉の上での緊迫したやりとりをしている状況で、選挙どころではないはずだという意見も若干はあったが、その声も政治家たちの離合集散の騒がしさの中で雲散霧消してしまった。その点では、野党もマスコミも共犯者の役割を演じてしまったといわざるをえない。

考えてみれば、この間の安倍政権は、「安全」を人質にとって、強引に多数を恃んで安全保障関連の政策を押し通してきた。秘密保護法、安保法制、集団的自衛権に関する政府解釈の変更、共謀罪の導入など、国民の自由・権利を侵害し、戦争へと引きずり込む危険性を増大させる政策を次々に実現してきた。そしてその過程では、それらの「安全」を確保するためとされる方策が、そのためにどれ程の効果があるのか、その方策を採用することによってどれくらいの別の危険を生み出すのか、得られる効果より失う自由の方が大きいとしたら他の方法は考えられないのかというような問題はほとんど議論されなかった。あたかも、犯罪を抑止し、取り締まるためには、監視カメラ、顔認証システム、GPS機能を使った監視システムの導入が、たとえば子供の安全を守るためとか性犯罪の防止とかを理由として、知らず知らずのうちに社会全体に広がっていったように、安全保障のための方策も、しかたのないものとして容認されるような雰囲気が醸成されているようにみえる。

危険や不安が増大しているという感覚が浸透し、強くなればなるほど、安全や安心への渇望は高まる。そして、危険や不安が個人の力を越えたところから発生してくる場合、その克服のために個人を越えたより力のある者への依存・期待が高まる。同時に、その依存や期待は、できるだけ即効性のある方法の採用に向かう。現代においては、その力のある者とは、国家に他ならないし、国家は軍事力・警察力を基礎にした強力な支配・統制というかって知ったる方法の採用に乗り出す。

世界に蔓延しつつある自国第一主義の風潮が、強大な国家と強い指導者を求める動向と密接不可分の関係にあるのは、そういう「安全と安心」を求める国民の意識に根拠があるといってもよいであろう。かくして、掌握した権力を確保し続けようとする政治家は、危険の増大と不安の解消を掲げて、国家の強大化を図り、そのために危険と不安を煽るという、マッチポンプを繰り返すということになる。一応民主主義が制度として定着した社会では、独裁を志向する者は、いきなり統制の強化という方法をとるわけにいかないから、政治手法としてポピュリズムに走るのは、そういう要因によるのである。

安全を求める政治の落とし穴

「安全と安心」の問題は、以上に述べてきたように現代政治を奥深いところで規定する重大な問題であるが、その問題の複雑性はあまり認識されているとはいえそうもない。「安全と安心」にかかわる問題領域は、実は限りなく広い。戦争、テロ、犯罪などは直接生命・財産にかかわるから認識されやすいが、少子高齢化社会の到来、環境破壊・地球温暖化、国家財政の破綻、社会福祉・年金制度の崩壊、競争の激化による没落の危機などなど、今すぐではないが、いずれ社会や個人の将来を不安定化させるであろう要因はいくらでもある。こうした将来への不安に対応する努力は様々形でそれなりに続けられてはいるが、完全に不安を解消する方法はまだ確立されているとはいい難い。また、それらの問題がどのように連関しあっているかの分析も十分になされているとはいえそうもない。

そういう将来に対する漠然たる不安が存在する状況に対して、多くの政治家は、戦争・テロ・犯罪など目に見える危険を強調し、先送りできる問題はできるだけ先送りするか、当面の弥縫的方策を提起するにとどまっているのが現実であろう。戦争やテロ・犯罪を強調するのは、独裁を望むデマゴギー政治家の常套手段であることをわれわれは知らなければならない。多くの歴史的事実はそのことを証明している。

もちろん、ここで「安全と安心」にかかわる問題について全面的に論じることはできない。その用意も能力も、残念ながら筆者には欠けている。しかし、当面の問題の論じ方に含まれる落とし穴については一言いっておかなければならないと思っている。それは、戦争やテロ・犯罪に対する安全の問題についての論じ方についてである。

秘密保護法や安保法制が論じられているころに、一部の論者によって主張されていた議論であるが、「安全を確保ためには、自由のある程度の制約はやむを得ない」と安全と自由とを二項対立的に論じ、「人権や憲法を盾にそういう法律や制度を全面的に否定する主張は現実を無視した空論である」と現実主義を標榜する論調が目に付いた。もちろん、そういう論者の中にも、秘密保護法や安保法制、共謀罪の導入が安全を確保するためにどれくらい有効か、その有効性はそのために容認する自由の制約に匹敵するだけの価値を持つかを厳密に検証すべきである、客観的かつ冷静な議論を要求する主張をする者もいた。だから、そうした主張が全面的にまちがっているといいたいわけではない。そういう検証抜きに強引に法案の成立を図った政府与党よりはましだからである。

しかし、最大の問題は、安全と自由を最初から二項対立的枠組みの中に押し込んでしまうところにある。安全をとるか、自由をとるかといわれた時、多くの場合は安全をとるだろう。命が危険にさらされている、あるいは命が奪われてしまえば、自由だといわれてもその自由を実現できる機会が無くなってしまうのだから、安全を優先せざるをえないというのが常識的判断というものであろう。だから、安全と自由を二項対立的枠組みに入れた瞬間から、安全が優先であるという判断が優勢になるという方向は確定してしまう。そして、安全を優先するという方向が確定してしまえば、あとは手段としての合理性の問題だけ残るしかない。そして、その合理性の判断は、状況以外の基準しかないから、状況の推移によっては制約の範囲はとめどもなく拡大する危険性を常に帯びることになる。論じ方の落とし穴はそこに掘られている。

かつて、「自由かしからずんば死か」という言葉が力をもった時代があった。たしかに、そんな時代は遠く過ぎ去ってしまったし、その言葉にしても一定の歴史的状況の下での政治的スローガンであって、それを現代に至るまで掲げるべき金科玉条とすべきではないであろう。しかし、その自由を獲得すべく積み上げられてきた人々の命がけの努力や歴史的重み、人間にとっての自由の本質的意味を考えた時、安全と自由を二項対立的枠組みの中に置くことはあまりにも軽すぎる。そこには、自由に関する哲学的思考も歴史的認識もかけらも見いだせない。そこにあるのは現実主義という平板かつ「常識的」なそして陳腐な発想だけである。

今必要なのは、自由と人権こそが人類が実現すべき最重要な価値であることを確認し、そこから安全の問題を考察するという態度である。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任、昨年4月より名誉教授。前本誌編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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