特集●総選挙 戦い済んで

安倍「働き方改革法案」は労働法制の破壊

労働運動の力で成立阻止に全力を!

中央大学名誉教授 近藤 昭雄

はじめに

本年9月15日、労働政策審議会が、労働大臣に対し、「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律案要綱」を答申した。その基になった4つの「分科会」からの答申が14日、あるいは15日、そしてまたその基である「部会」からの「分科会」宛答申が12日という慌ただしさ(もっとも、2015年2月13日に、労政審労働条件部会から、「今後の労働時間等の在り方について」なる「報告書」が提出されていて、そこでは、今回「答申」とほぼ同一内容の提言がなされている)で、かつ8法案一括提案という粗雑さで、労政審では実質審議は全く行われず、全ては政府(厚労省)の主導で展開され、結局上記審議会は、形式を整えるための「お飾り」に過ぎないことが明らかとなった。

まさに、「労働者の働き方」に関わる重大法案が、まったくの政府主導により決定されていくところに、審議過程の空洞化が露呈されたのである。そして、それに対して、「労働者代表」としてその過程に参加していながら、それに対して何らの行動も起こさない組織の「ふがいなさ」は、大いに糾弾されるべきである。

法案の作成過程のそのような様を反映して、その内容も、重大な問題点をはらんでいる。以下、労働基準法とパート労働法に関する改正提案部分を中心に、「要綱案」のはらむ問題点について指摘するとともに、それらに対する、労働組合運動の対応課題について、考察していきたい。

1.時間外労働の上限規制

1)労働基準法の改正内容として示されている要点は、次の3点である。

①36協定において定めることができる時間外労働の「限度時間」を「1ヶ月について45時間及び1年について360時間」とすること

②36協定においては、「通常予見することのできない業務量の増加等に伴い臨時的に上記『限度時間』を超えて労働させる必要がある場合」について、時間外労働・休日出勤をさせることができる旨を定めることができて、その場合の限度時間は、上記限度時間と合わせて、上限「1ヶ月100時間・1年720時間」とすること、その場合には、45時間を超えることのある「月数」を定めること

③上記限度規制については、「工作物の建設の事業・自動車運転の業務・医業に従事する医師」については、法律施行の日から「5年間」、その適用を猶予すること

2)これについては、労働基準法に時間外労働・休日労働の限度時間数が規定されることをもって「画期的」と評価し、それ以外の改正点に目をつぶる(黙認する)向きもある旨伝え聞くが、とんでもない「脳天気」である。

というのは、①時間外・休日労働は、元々、「通常予見することのできない業務量の増加」があった場合に行われるべきものである。その場合に、「1ヶ月100時間・1年720時間」を限度として、時間外・休日労働ができる旨を許容するということは、恒常的に「1ヶ月100時間」の時間外・休日労働が許されることを労基法本文で規定することである。これまでは、後述するように、厚労省告示でこっそりと、いわば、「お目こぼし」的に行われていたことが、労基法本文という、いわば、「表舞台」に登場して、堂々と、1ヶ月、プラス100時間上限での労働が可能となってくる。こんなものでは、いかなる意味でも、時間外労働の規制になるものではない。しかも、この時間外労働「100時間」というのは、厚労省自らが「過労死」認定の基準としているところである。労働者を「過労死」直前の労働状態に追い込む可能性のある方向への法改正をもって、「画期的」などと評価する向きに対して、あらゆる糾弾のつぶてを投げつけなければならない。

②これを、「時間外労働の規制」という点から見ても、実質的に、従来と殆ど変わらないもので、「画期的」などといえる代物ではない。

この「時間外労働の規制」は、1982年に始まる。36協定で定めるべき内容については、労働基準法施行規則(労基則)16条で規定しているが、同年、その1項目につき、「1日及び1日を超える一定の期間についての延長することができる時間又は労働させることができる休日」を加えるとともに、その「1日を超える一定の期間についての延長することができる時間」について、「時間外労働指針――36協定の延長時間の目安に関する指針――」(昭和57年労働省告示第69号)をもって、その上限についての「目安時間」を定め、労基署に36協定が届け出られた場合に、「行政指導」を以て、それに誘導するとの方式がとられた。そして、1ヶ月上限45時間・1年360時間、工作物の建設等の事業・自動車の運転の業務等を適用除外とすること等は、この段階から定められていたものである。

ところが、この「目安時間」に基づく「行政指導」方式は、なんの法的根拠もないこと(経営側弁護士等は、その点を突いて、企業に対し、従うべき義務はなく、労基署は受領を拒否できない旨、指導していたという)、窓口業務の煩雑さ等から、効果を上げ得なかった。この事態に、業を煮やした(旧)労働省は、99年、労基法36条を改正して、同条2~4項を以てこの方式に法的根拠付けをする(2・4項)とともに、労使双方がそれらを遵守すべきことを義務付けた(3項)うえで、「労働基準法第36条第1項の協定で定める労働時間の限度に関する基準」(平成10年12月28日労働省告示第154号)を定めた。しかし、規制の上記水準や適用除外について、15年前と何ら変わらないばかりか、かえって、36協定で、あらかじめ「限度時間を超えて労働時間を延長しなければならない特別の事情」と時間数等を定めた場合には、それによって労働させることができるものとする(告示3条但書)ことによって、規制を無意味化してしまった。

このやり方は、今回も、基本変わっていない。上限基準(それも、4半世紀前と変わらないきわめて低い水準である)を定め、ところが、その低い上限規制をも無意味化する例外を定めるというやり方である。上記告示では、例外時間につき、36協定で、「青天井」で決めることができることになっているから、その例外についても、上限を定めた今回改正は、進展といえそうではある。しかし、その水準も、1ヶ月100時間という、「過労死」水準であってみれば、そんなに威張れたものではあるまい。また、今回の場合は、「罰則」を伴った規制であることが強調される。しかし、これとても、何ら従来と変わるものではない。たとえば、これまでであっても、告示に従って1ヶ月45時間の上限を守って、36協定が締結されて届け出られたとして、現実的に、それに違反して45時間を超える時間外労働がなされた場合には、「36協定に基づかない時間外労働」として、労基法32条違反の罰則が適用されることになる。この構造は、上限規制が告示に基づくものなのか、今回のように労基法32条本文に基づくものであるのかによって、何ら変わるものではない。

上に見た歴史的過程から見ると、なんの規制もない状態から「指針」に基づく規制、さらに、労働省告示による規制、そして今回の労基法本文に基づく規制へと、順次ランクアップしているかのごとくである。しかし、だからといって、何が変わるというのか。実定法(労基法)で規定したら、それで世の中が変わるようなものではあるまい。そうであれば、「労働省告示」という、日本では、最も権威のある「お上」の命令で、事態は革命的に変わっていたはずである。実定法の規定によって世の中が変わる、変えることができるなどと考えるのは、労働組合としての精神を忘れたパラサイト思考に他ならない。わが国において、なにゆえに過重労働が蔓延するに至ったかの分析、それを生んでしまった自分たちの運動の反省に基づき、その原因の除去を目指すのでない限り、事態の改善は、あり得ない。それどころか、上に見たような、労働者を「過労死」直前の労働状態に追い込む可能性のある方向への法改正に目をつぶる、あるいは手を貸すなどといったことは、絶対にあってはならない。

2.フレックスタイム制

1)一見では目立たないが、重大な問題をはらむのは、フレックスタイム制についての改正である。

そこでは、「フレックスタイム制の清算期間の上限を3ヶ月とする」とともに、清算期間が1ヶ月を超える場合には、1ヶ月を平均して、1週間あたりの労働時間が50時間を超えない範囲で労働させることができるものとし、平均50時間を超えた場合には、割増賃金を支払うべきものされる。フレックスタイム制というのは、労使協定において、「清算期間」に対応する「法定労働時間」限度内で(「清算期間」を平均して、1週40時間となること)、「総労働時間」を定め、その範囲内で労働者に、出・退勤の時刻の決定を委ねる、というものである。従来から認められている「1ヶ月単位」のフレックスタイム制に則していえば、1ヶ月の法定時間は、大の月で177.14…時間、小の月で171.43…時間であるから、たとえば、1ヶ月の「総労働時間」を、170時間と定めて、労働者が、自己の計算に基づき、好きな時刻に出・退勤しつつ、1ヶ月に170時間働くというものである。

ところが、清算期間につき、3ヶ月という形態を認めるというのであるから、3ヶ月の日数は91または92日となるから、その期間の「法定労働時間」は520時間または525.7…時間となるので、上の例にならえば、労使協定で、3ヶ月で例えば、520時間という「総労働時間」を定め、労働者が、自己の計算に基づき好きな時刻に出・退勤しつつ、3ヶ月に520時間働く、ということになる。ただ、これでは、余りに大きな数字になりすぎ、しかも、フレックスタイム制では、1日あたりの労働時間制限がないから、1日に20時間、1ヶ月で400時間(20日勤務の場合)を働いてしまうことも可能になってしまう。

そこで、1ヶ月を超える(例えば3ヶ月の)清算期間を定めた場合には、1ヶ月を平均して、1週50時間であることを要する、としているものである。しかし、これによっても、(1ヶ月平均で1週50時間なのだから)1ヶ月214.28…(小の月)、または、221.43…(大の月)時間の労働が可能になってしまう。そして、さらに、割増賃金は、本来は、3ヶ月間に働いた時間数が「法定労働時間」(520時間または525.7…時間)を超えた場合にのみ支払い義務が生じるのだが、上記時間数(平均50時間)を超えた場合には、割増賃金を支払うべきものとして、3ヶ月単位のフレックスタイム制をその程度のパターンに抑えようと意図しているものであろう。

2)フレックスタイム制というのは、元々はヨーロッパにおいて、1955年以降の技術革新・合理化の結果、生産現場において機械が主人公で人間が従となる事態が生まれ、労働過程における「疎外」が現実化した情況に対する労働者の抵抗運動として、自主管理闘争が展開されていったことに始まる。そのような中で、資本の側からのそれへの対応策の一つとして、アブセンティズムと表現された欠勤率の上昇に対処し、生産性の維持を図るべく、労働時間管理に関し、部分的とは言え、出・退勤時刻の決定を労働者に委ねるという形で、その主体性を尊重するという管理方式が採用され、70年代に広がりを見たものである。

したがって、フレックスタイム制の基本・生命線は、労働者による労働時間の「自己管理」である。その権利の保障・確立がないところでは、本来の目的を達成できないどころか、逆のものに転化してしまう危険性が高い。

ところが、わが国の場合、89年の労基法改正において、企業の業務の波に合わせての「労働時間の弾力化」というスローガンの下、変形労働時間制の拡大(「3ヶ月単位の変形労働時間制」(現在は、1年単位まで拡大)・「1週間単位の非定型的労働時間制」の導入)、裁量労働制の導入と並んで、フレックスタイム制が導入されたものであった(労基法32条の3――法文上も、1ヶ月単位の変形制(32条の3)と1年単位の変形制(32条の4)との間に規定されている)。したがって、そこには、本来的な理念のカケラも存せず、ただ、出・退勤の時刻管理を厳格にしないというだけの、「労働時間のあいまい化」が進み、業務量に合わせて働き、それがきちんとカウントされないという事態(サービス残業の常態化)が生まれる。

このような事態下で、1日あたり・1週間あたりの上限規制もない(1ヶ月平均50時間の制限だから、特定の日・週には上限なく労働できる)まま、先に見たような1ヶ月210時間以上を「自由に働ける」などということを認めたら、「虎を野に放つ」ようなものである。この可能性に気付かないなどというのは、労働組合として、鈍感に過ぎる。このようなもの(3ヶ月単位のフレックスタイム制)を導入するようなことは、絶対的に、あってはならない。断固として、撤回に向けて、闘うべきである。

それが、不可能であるというのなら、現行の「1年単位の変形労働時間制」における規制を導入することを絶対条件とすべきである。変形労働時間制というのは、各単位の法定労働時間の総数を適宜配分していいという制度であるから、単位が大きくなれば配分可能な労働時間数はすさまじく大きくなり、超変則・過酷な勤務態勢が作られかねないことから、「3ヶ月単位」の段階から、変形形態の規制が法定されてきた。現行では、32条の4に基づいた変形労働時間制を採用するについては、同条3項の規定に基づいて規定された労基則12条の4・③項により、労働時間は、①1日10時間、②1週52時間を限度とし、③毎週1日の休日を保障し、かつ連続勤務は6日限度とすべきものとされている。したがって、変形制とフレックスと形式は異なっても、上に見たように、はらむ危険性は同じなのだから、当然、上記規制は参考にされるべきである。

さらに、長期的運動課題としては、日本の労働現場に完全に欠けてしまった労働者の労働時間の自主管理権の確立を図ることである。現状は、業務における必要性に基づいて、企業が働く時間の長さや質を決めることになっていて、「働き方改革」なるものは、そのために制約となっている法的規制を外していこうというものである。先に触れたように、法に頼って現実を変えるのではなく、日常の中に労働者の権利を確立していくことが基本とされるべきであろう。

3.裁量労働時間制

1)「企画業務型裁量労働制」(労基法38条の4)の「対象業務」に、

①「事業の運営に関する事項について繰り返し、企画、立案、調査及び分析を主として行うとともに、これらの成果を活用し、当該業務の運営に関する事項の実施状況の把握及び評価を行う業務」と、

②「法人である顧客の事業の運営に関する事項についての企画、立案、調査及び分析を主として行うとともに、これらの成果を活用し、当該顧客に対して販売又は提供する商品又は役務を専ら当該顧客のために開発し、当該顧客に提案する業務(主として商品の販売又は役務の提供を行う事業場において当該業務を行う場合を除く。)」の2つを追加すること、

③「企画業務型裁量労働制」において、使用者が具体的な指示をしない時間配分の決定に、「始業及び終業の時刻の決定」が含まれることを明確化すること、
とされる。

それでいながら、「対象業務」に従事する労働者の健康・福祉を確保するための措置については、いわゆる「インターバル制」、「労働時間が一定の時間を超えないようにする措置、有給休暇の付与、健康診断の実施等」について、「労使委員会が決議したものを使用者が講じるものとすること」に止めている。

2)この「裁量労働時間制」というのは、元々、いかがわしい制度である。

まずその当初は、89年労基法改正において「業務の性質上その遂行の方法を大幅に当該業務に従事する労働者の裁量にゆだねる必要があるため、当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し使用者が具体的指示をすることが困難なもの」として労基則で定めた専門的業種に限定して、その業務に従事する労働者の労働時間数を「労使協定」で決めて、働かせることができるものとして、「1日8時間、1週40時間」の労働を基本原則とし、それを超えて働かせる場合には、36協定を締結し、労基署に届け出るという労働時間規制の枠組み(一応、「目安時間」システムによる上限規制が及ぶ)から、切り離すものであった。確かに、そこで定められていた業種は、たとえば、研究・開発、雑誌・新聞の編集、デザインの考案等といったように、その業務の遂行について、担当労働者の裁量が働きやすいものではあった(後日、この裁量労働制は、後述の「企画業務型裁量労働制」が導入された段階で、「専門業務型裁量労働制」と称されることになった)。

しかし、その業務のやり方について労働者の裁量が働き、その点につき、使用者が具体的な指示をしにくい・しないからといっても、それでも、使用者のために働く者として、その包括的支配=業務システムの中に置かれているにもかかわらず、その支配下で労働に従事している時間=「労働時間」の長さを規制する労基法の枠組みから外されるのは何故なのか、について明らかにされず、「いかがわしさ」を残したまま、強行的に導入されていった。そして、大方のところでは、その仕事のやり方に裁量が働く専門的業種においては、やむを得ないか、といった甘い思いが存してもいた。

ところが、99年労基法改正に至って、隠されていた本性が牙をむく。

90年代に入って、いわゆるバブル経済崩壊後の不況の中で、その克服のための資本による収奪が強められて行くうちに、「成果主義」なるイデオロギーが喧伝されるとともに、サラリーマン労働は、働いた時間の長さによるのではなく、「成果」で評価されるべきだから、長さを基準とした規制にはなじまないとのおかしな理屈(本来、労働時間計算の基準と成績評価の基準とは、質的に別のものであるはずである)を以て、資本の側から、「裁量労働時間制」のサラリーマン労働への一律適用が主張・要求されていく。

その結果、99年改正において、
①専門的業種における「仕事のやり方についての労働者の裁量可能性」などという要素は、すっ飛ばして、新たに、「事業の運営における事項についての企画、立案、調査及び分析の業務」と、事務労働に一般化した「企画業務型裁量労働制」が付加されるとともに、
②職場における労働組合による労働条件規制を排除する狙いの下、「労使委員会」なる制度*が、合わせて導入され、「裁量労働」における「労働時間数」は、そこで決定されるものとされた。そして、今回、そこに、上述した2つのものが付加されようとしているのである。一つは、事業場内事務労働全般への適用可能性の達成であり、今一つは、営業職への拡大である。

一見、その適用範囲を限定するかのように業務内容の限定がなされてはいる。しかし、今日、「提案営業」でない、ただ単に「売るだけ」の営業など殆どない以上、その殆どの営業業務が「裁量労働」として扱われていくことになるであろうし、いったん「営業職」が対象となるかのごとき規定がなされれば、企業は、それを名目にして、無限の拡大利用を図るものであって、行政がいかなる通達を出そうとそれに対し無力であることは、従来からの経験が示しているところである。営業職を「企画業務型裁量労働制」に加えることを以て、上に言及した「裁量労働時間制」のサラリーマン労働への一律適用の完成である。

加えて、始業・終業の時刻の決定が労働者の裁量にゆだねられることにするという。というと、格好いいことに聞こえるが、そもそも1日の労働において、何時から何時まで働くのかが画定されることによって、彼・彼女の1日の労働量がカウントされ、決まるものである。ところが、この1日の労働の始まりと終わりが明確に画定されずに、労働者の裁量に任されるということは、1日、1週あたりの彼・彼女の労働時間(提供すべき労働量)の画定があいまい化することである。労使委員会で、形式的に彼・彼女の労働が何時間の労働とみなされるか(「みなし労働時間」)を決めておいて、それをどんな形・やり方で処理しようと、「労働者の『裁量』です」ということになる。無限の労務提供、限度なき労働が展開されることになってしまう。これによって、営業職を含むサラリーマン労働への「裁量労働時間制」の一律適用が完結することになる。

上に言及したように、「裁量労働時間制」は、労基法による労働時間規制枠組みの適用除外であった。それ故、「裁量労働時間制」のサラリーマン労働への一律適用が完結するということは、労基法による労働時間規制枠組みがサラリーマン労働の世界から放擲されてしまうことである。そして、サラリーマンに無限の労働が強制されていくということである。19世紀中盤に始まる労働時間の法的規制の終焉である。「改革」に名を借りたこうした暴挙を決して容認してはならない。

*「労使委員会」は、労使同数で、「賃金、労働時間その他の当該事業場における労働条件に関する事項を調査審議し、事業主に対し当該事項について意見を述べることを目的とする委員会」である。これは、まさに「団交」に替わる機能の制度化に他ならないといえよう。実は、「企画業務型裁量労働制」の導入は、企業・職場における労働組合機能の排除を、同時に果たしたものであった。労働運動分野において、この重要な局面が認識されていないところに、著しい鈍感さが示されているといわざるを得ない。

4.特定高度専門業務・成果型労働制

1)労使委員会が、5分の4の多数を以て、「高度の専門的知識等を必要とし、その性質上従事した時間と従事して得た成果との関連性が通常高くないと認められるものとして厚生労働省令で定める業務」(対象業務)に該当するものと決議し、労働者の「書面による同意」に基づき、その業務に従事させた労働者については、労基法32条の労働時間規制、週休制の原則、休憩時間に関する規定、深夜労働に対する割増賃金支払いに関する規定全てが、適用除外とされる。そして、上記対象業務としては、「今後の労働時間等の在り方について」と題する2015年2月13日付労政審労働条件部会報告書によると、金融商品の開発業務、金融商品のディーリング業務、アナリストの業務、コンサルタントの業務、研究開発の業務等が予定されている。

本要項によれば、賃金の額が、「1年あたりの賃金額に換算した額が基準年年間平均給与額(厚生労働省において作成する毎月勤労統計における毎月決まって支給する給与の額を基礎として厚生労働省令で定めるところにより算定した労働者一人あたりの給与の平均額をいう)の3倍の額を相当程度上回る水準として厚生労働省令で定める額以上であること。」が条件であるとされ、同じく、上記「労働条件部会報告書」によれば、1075万円程度が予定されているという。

2)これについては、巷間、「残業代ゼロ法案」との名称で喧伝される一方、上記のような高度なプロフェッショナル業務に限定され、賃金も年収1000万を超える高額所得者に限定しているのだからと甘く捉えて、反対運動もさほど盛り上がってはいないようであり、一時期連合執行部がこの法案を容認する姿勢を見せたりすらした。

しかし、それは、連合執行部が安倍政権・資本に完全に取り込まれた様をさらけ出したものというべく、本制度は「残業代ゼロ法案」というとらえ方すら甘く、「労働時間法制破壊法案」ともいうべきものである。

このような法案の目論見は、90年代に始まる。すなわち、90年代不況の中で、「時間ではなく、成果で働く」論が強力に展開され、99年労基法改正で、「企画業務型裁量労働時間制」が導入され、サラリーマン労働に対する32条外しが始まったことは、先に論及した。そして、それでは足らず、さらに、労基法の労働時間法制そのものを打ち壊そうとする策動が始まる。サラリーマンは「時間ではなく、成果で働く」もので、労働時間の量的規制にはなじまないという「迷論」をもって、一定額以上の成果=賃金を受領している者については、一切の労働時間規制を外してしまおうとする、いわゆる「サラリーマンエグゼンプション」制度の導入が喧伝された。

これにつき、厚労省は、ずいぶんと熱心に、その導入を画策したのであるが、調子に乗った経団連会長が年収600万基準を公言したことにより反対論に火が付き、「サラリーマンエグゼンプション」制度の実現は、いったん頓挫した。しかし、アベノミクスなる政策の下、再び「サラリーマンエグゼンプション」制度論が復活した。その魁が、この「高度プロフェッショナル制度」なのである。

これに対し、高度なプロフェッショナル業務に限定され、賃金も年収1000万を超える高額所得者に限定しているのだからと、甘く見る向きがあることは、先に触れた。しかし、この人の良さは、権力の本質に認識が及ばない、あるいは、歴史に学ばない「脳天気」といわざるを得ない。派遣労働の容認は、当初16業種に始まった。しかし、それをベースに既成事実を積み上げて、「ポジティブリスト」方式から「ネガティブリスト」方式への転換と称して、製造業を含む全業種への派遣の一般化が容認されてしまった。先に見たように、「裁量労働時間制」についても、当初は、「専門業務型」で始まり、「企画業務型裁量労働制」が追加され、サラリーマン労働についての規制外しが完成していく。その同じ歩みが、今始まろうとしているのである。

しかも、今回の歩みは、労基法により確立された労働時間規制の枠組み、労働者保護の枠組みの破壊の歩みの始まりである。長い歴史を経て確立された伝統的な労働時間規制は、労働者が「使用者の支配下において労働に従事する時間」の規制なのである。だから、最高裁も、「労働時間」とは「会社の指揮命令下にある時間」をいうものとしているのである。1日24時間の中で、その時間が長時間に及ぶと、健康への危険が増大し、あるいは、家庭生活・市民生活の破壊に繋がるから、その時間の長さを規制し、以て労働者の健康や家庭生活・市民生活を護ろうとするものなのである。

その労働の質がどんなものであるかには、一切関係ない。労基法41条は、「管理監督者」や「監視又は断続的労働」について、労働時間規制を外しているが、厚労省の通達においても、「管理監督者」とは、労務管理方針の決定に参画し、あるいは労務管理上の指揮権限を有し、経営者と一体的な立場にあること、および自己の勤務について自由裁量の権限を有し、出退勤について厳格な制限を受けないことが必要条件であるとされる。「監視又は断続的労働」については、その該当性は労働基準監督署の許可に係わらしめるとともに、極めて緊張度の低い労務であることや、手待ち時間が多く、労働従事が、実質8時間程度であることが許可基準とされている。

これに反して、むしろ、高度プロフェッショナル労働分野においては、社会的に不規則・長時間労働が問題になっている折、高度プロフェッショナル労働だから規制を緩めるなどというのは、労働時間規制の趣旨・理念に反することであることが、すぐに解るであろう。また、賃金額が多かろうと少なかろうと、労働時間規制とは無関係である。いかに多額の賃金が支払われていようと、使用者の支配下にあるべき時間の長さに差を設けてはならない。健康や、家庭生活・市民生活の価値は、お金で売れるものではない。

このように、労基法32条は、労働者の健康と、家庭生活・市民生活の擁護を基本理念とする、「使用者の支配下で、労働に従事する時間の長さ」の規制である。したがって、業務の内容や賃金額のいかんによって規制の仕方や水準を変えようというのは、労基法32条の理念を、真正面から破壊しようとするものである。そして「高度プロフェッショナル制度」は、その魁となるものである。先に見たように、ごく小さな浸食から始めて、「蟻の一穴」のごとく、全体を破壊してしまうのが、権力のやり方である。先に、本要綱は「労働時間法制破壊法案」ともいうべきものである、と言い切った所以である。

再度、強調する。このような法案を絶対に通してはならない。日本の労働者を「過労死」の危機、家庭生活崩壊の危機があふれる荒野に、放り出してはならない。

5.労働契約法20条の削除とパート労働法への統合

1)パート労働法(短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律)の名称を、「短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律」と、名称変更し、有期雇用労働者の労働条件差別に関する問題をパート労働法に組み入れるとともに、労働契約法20条を削除することとした。これに伴い、
①「事業主は、その雇用する短時間・有期雇用労働者の基本給、賞与その他の待遇のそれぞれについて、当該待遇に対応する通常の労働者の待遇との間において、当該短時間・有期雇用労働者業務の内容及び当該業務に伴う責任の程度(以下「職務の内容」という。)、当該職務の内容及び配置の変更の範囲その他の事情のうち、当該待遇の性質及び当該待遇を行う目的に照らして適切と認められるものを考慮して相違を設けてはならない」という規定と、
②パート労働法9条の後段部分を変更して、「事業主は、職務の内容が通常の労働者と同一の短時間・有期雇用労働者であって、当該事業所における慣行その他の事情から見て、当該事業主との雇用関係が終了するまでの全期間において、その職務の内容及び配置が当該通常の労働者の職務の内容及び配置の変更の範囲と同一の範囲で変更されると見込まれるもの(…「通常の労働者と同視すべき短時間・有期雇用労働者」…)については短時間・有期雇用労働者であることを理由として、基本給、賞与その他の待遇のそれぞれについて、差別的取扱いをしてはならない」とされる。

2)上記①は、正規、非正規間の「不合理な」労働条件格差を禁じるかに見えて、労契法20条に繋がるかのごとくでは、ある。しかし、労契法20条が,両者の労働条件に相違がある場合に、「当該労働条件の相違は、労働者の業務の種類及び当該業務に伴う責任の程度(以下この条において「職務の内容」という。)当該職務の内容及び配置の変更の範囲その他の事情を考慮して、不合理と認められるものであってはならない。」と、回りくどい表現ではあるものの、直截的であるのに対し、上記①では、「当該待遇の性質及び当該待遇を行う目的に照らして適切と認められるものを考慮して、不合理と認められる相違を設けてはならない」と、さらに意味不明と言っていいほどに「あいまい化」している。これは、結局、使用者が格差正当化の理由として挙げるものの幅を広げ、もって、逆に「不合理」と判断される可能性を狭めるもので、法案作成官僚の「姑息さ」が目立つ。

それ以上に重要なことは、第1に、不合理制判断に際して、考慮されるべき要素として、「当該待遇を行う目的」が明示されたことである。これは、使用者の、非正規労働利用の目的、端的に言えば、非正規労働という形態を利用して生産コストを引き下げるという、経営側の論理を格差正当化の根拠として認めることに道を拓くものである。まさに、「衣の下の鎧」、もっとストレートにいえば「仕込み杖」に他ならない。

事実、労契法20条を根拠に、正規・非正規間の労働条件格差の不合理性を争った、裁判例においては、日本的人事管理制度の下での、企業における正規・非正規の人事管理上の位置づけの違いを根拠に、その正当性が肯定されてきている。

たとえば、ハマキョウレックス(差戻審)事件(大津地彦根支判平27・9・16)では、「労働契約法20条における『不合理と認められるもの』とは、有期契約労働者と無期契約労働者間の当該労働条件上の相違が、それら労働者間の職務内容や職務内容・配置の変更の範囲の異同にその他の事情を加えて考察して、当該企業の経営・人事制度上の施策として不合理なものと評価せざるを得ないものを意味すると解すべきところ、被告のD支店においては、正社員のドライバーと契約社員のドライバーの業務内容自体に大きな相違は認められないものの……、……被告は、従業員数4597人を有し、東京証券取引所市場第1部へ株式を上場する株式会社であり、また、……従業員のうち正社員は、業務上の必要性に応じて就業場所及び業務内容の変更命令を甘受しなければならず、出向も含め全国規模の広域異動の可能性があるほか、被告の行う教育を受ける義務を負い、将来、支店長や事業所の管理責任者等の被告の中核を担う人材として登用される可能性がある者として育成されるべき立場にあるのに対し、契約社員は、業務内容、労働時間、休息時間、休日等の労働条件の変更がありうるにとどまり、就業場所の異動や出向等は予定されておらず、将来、支店長や事業所の管理責任者等の被告の中核を担う人材として登用される可能性がある者として育成されるべき立場にあるとはいえない。」ことを理由に、「一時金の支給、定期昇給並びに退職金の支給」のみならず、「無事故手当、作業手当、給食手当、住宅手当、皆勤手当、家族手当」の不支給・格差を肯定していた。

また、メトロコマース事件(東京地判平28・12・15)では、「正社員と契約社員Bの本給及び資格手当、住宅手当、賞与、勤続10年・退職各褒賞には相違があるが,両者の間には職務の内容並びに職務の内容及び配置の変更の範囲に大きな相違がある上,正社員には長期雇用を前提とした年功的な賃金制度を設け,短期雇用を前提とする有期契約労働者にはこれと異なる賃金体系を設けるという制度設計をすることには,企業の人事施策上の判断として一定の合理性が認められるといえる。」とされた。

さらに、ヤマト運輸事件(仙台地判平29・3・30)においても、「マネージ社員とキャリア社員との間には,ともに運行乗務業務に従事している場合、その内容及び当該業務に伴う責任の程度は同一といえる……が,マネージ社員に期待される役割,職務遂行能力の評価や教育訓練等を通じた人材の育成等による等級・役職への格付等を踏まえた転勤,職務内容の変更,昇進,人材登用の可能性といった人材活用の仕組みの有無に基づく相違があり,職務の内容及び配置の変更の範囲には違いがあり,その違いは小さいものとはいえない。」として、賞与の支給格差が正当化された。

こうした判例の傾向に対し、この「当該待遇を行う目的」を考慮要素として肯定することは、それらの判断枠組みと結論の双方をストレートに肯定することになる。「平等化」どころか、正規・非正規差別の人事制度の直截的承認である。このわずかばかりの規定追加によって、見事に、規定の質的転換=逆転が達成される危険が含まれていることが洞察されねばならない。

第2には、格差の比較対象、したがって救済対象が、「基本給、賞与その他の待遇」と、具体化され、限定化されたことである。というのも、労契法20条に関する厚労省通達(平成24年8月10日付け基発0810第2号「労働契約法の施行について」(厚生労働省労働基準局長発 都道府県労働局長あて))においては、同条の「『労働条件』には、賃金や労働時間等の狭義の労働条件のみならず、労働契約の内容となっている災害補償、服務規律、教育訓練、付随義務、福利厚生等労働者に対する一切の待遇を包含する」として、それらについての格差が救済対象となるものとされていたが、本要綱において、救済対象が、「基本給、賞与その他の待遇」と、具体化され、限定化されたことがいかなる意味を持つかが重要である。「その他の待遇」の中に、上記通達と同一のものが含まれるかどうかである。

というのも、運動の現場では、正規・非正規間の労働条件差別に対する闘いを、まずはこのような福利厚生等の分野までも及んでいる差別の撤廃から始めて、そのような人事管理制度の撤廃に向けた運動にまで高めていこうとする試みが展開されているからだ。それに対し、使用者は、「その他の待遇」とは、「賃金や労働時間等の狭義の労働条件」のことだというに決まっているから、そのような闘いの持続化に向けて、審議過程では、それは労契法20条の趣旨と何ら変わらないことを明確にしておくことが重要なのである。一見小さなことであっても、運動の現場から、先を見据えておくことが大事なのである。

前記②の前段は、旧パート労働法9条の前段とほとんど同一表現となっているが、「差別取扱い」をしてはならないとされるものとして、パート労働法では、「賃金の決定」のみが表示されていたのに対し、「基本給、賞与、その他の待遇」となって、賃金関係では具体化したと読める一方、パート労働法9条にあった「教育訓練の実施、福利厚生施設の利用」が落ちて、福利厚生施設の利用についてのみ、別途に「事業主は、通常の労働者に対して利用の機会を与える福利厚生施設であって、健康の保持又は業務の円滑な遂行に資するものとして厚生労働省令で定めるものについては、その雇用する短時間・有期雇用労働者に対しても、利用の機会を与えなければならないものとすること。」としている。細かいことではではあるが、これは何を意味するのか。

上記①と連動して、「差別取扱い」禁止をこの明示されたもののみに限定していこうとする意図であるとするならば、改悪に他ならない。先に述べたように、運動の「足がかり」を奪ってそれを「芽」のうちに摘み取ってしまおうとする策謀という他ない。審議の過程において、それこそそのような危険な「芽」を摘んでおくことが必要である。運動のリアリストは、脳天気な労働運動本部官僚とは異なって、小さな危険因子にまで、目を配るべきである。

その②について、それ以上に重大な問題は、差別取扱い禁止は、労契法20条と違って、旧パート労働法9条と同様、「通常の労働者と同視すべき短時間・有期雇用労働者」に限定しての差別取扱い禁止となっているところである。非正規労働者(ここでは、短時間・有期雇用労働者と派遣労働者を総称するものとして、「非正規労働者」と表現する)の低劣な労働条件・環境に基づく「貧困化」の大本の原因は、正規・非正規間の著しい労働条件差別である。そしてそれは、ジョブ限定なしの新卒者の期間の定めなき直接雇用、企業の直接的指揮命令下での所定労働時間勤務(フルタイマー)、その後の配置転換に基づく企業内キャリアの蓄積を前提とした昇進ルート、その行き着いた先の定年という日本的雇用慣行にはめ込まれた「正規労働者」に対して、その外で雇用された「非正規労働者」という形で、完全に峻別された雇用構造に根ざしたものなのである。

それゆえ、「当該事業所における慣行その他の事情から見て、当該事業主との雇用関係が終了するまでの全期間において、その職務の内容及び配置が当該通常の労働者の職務の内容及び配置の変更の範囲と同一の範囲で変更されると見込まれる」短時間・有期雇用労働者などというものは、ほとんど、存在しない。これの元規定である旧パート労働法3条は、2008(平成20)年4月1日施行であるが、それからおよそ10年近くが経過しても、パート労働者の処遇が殆ど変化していないことは、その証左である。

同条の規定は、「通常の労働者と同視すべき短時間・有期雇用労働者」については、「通常の労働者」と差別してはならないというもので、同じものは同じに扱えという「当たり前のこと」を定めたに過ぎず、これを反対解釈すれば、通常の労働者と「同視できない労働者」については、差を設けてもよいということであって、むしろ格差の正当化である。これでは、過去、パート労働法3条によって、殆どのパート労働者が救済されなかったように、有期雇用労働者が救済されることはない。そして、労契法20条の適用に関し、正規・非正規労働者の人事管理上の違いを理由に差別的扱いを肯定してきた前掲判例のような論に、正当化根拠を与えるものである。

つまり、日本的雇用慣行のもとにおいて、②のような規定を持ち込むことは、正規・非正規差別の正当化、固定化に他ならないのである。労契法20条に替えて、このような規定を法定化することは、絶対的に阻止せねばならない。先に見たように、非正規労働者らは労契法20条の「不合理な労働条件差別の禁止」という規定をなんとか自分たちの武器にできないものかを考え抜き、裁判において、職場において、差別克服の闘いを展開しようとしている。ところが、この規定の法定化は、その武器を取り上げ、運動を死に至らしめてしまうものである。それ故、労契法20条に替えたこの規定の法定化を肯定しようとする者は、非正規差別の構造を看過した「脳天気」というに止まらず、労働者の運動にとっての「犯罪的行為」あると糾弾されてしかるべきものである。

このように、労契法20条に替えて②のような規定を法定化することは、絶対的に、阻止せねばならない。と同時に、それが正規・非正規差別の固定化を図ろうとするものであってみれば、その差別の構造に切り込んだ運動がなされねばならないことが、ここには提起されているといえよう。

おわりに

以上に見てきたように、「働き方改革」なるものは、労基法による労働時間規制の解体と、非正規差別の構造の固定化を図ろうとするものであった。

しかし思えば、こうした労働者保護法制度の切り崩しと資本による収奪施策の固定化は、急に出てきたものではなく、1986年の労働者派遣法の制定に始まるといえる。この企業の労務政策を支援する「事業法」とも言うべき法によって、労働者保護の法制度を切り崩し、それまで「労働者供給事業」として禁止されていた「人間の商品化」を法認することによって、企業内に派遣労働なる労働形態がビルトインされていった。そして、技術革新・高度成長の過程で生み出され、固定化されていったパートタイマー、有期契約労働者を加えて、正規・非正規労働者の峻別を基礎とした業務態勢ができあがっていく。

一方、国鉄の分割・民営化、公務員労働運動の抑圧、それを踏まえての労働戦線統一という流れの中で、次第に労働運動の牙が抜かれていく。

そうした中で、「規制緩和」の名の下に、派遣法の改正による派遣労働の一般化、本文でも触れた、数度にわたる労基法改正、個別合意優先の労働契約法の制定等、現実に合わせた法政策が展開されていった。

この展開は、いつも、先に、現場で、資本の方策が定着し、それに合わせて従来の法的規制を緩める、という形で展開される。常に、「事件は、現場で起きている」のである。これに対し、日本の労働運動は、現場での規制力を全く失ってしまった。そしてそこには、高度成長の過程で主張され、民間労働運動を領導した「パイの分け前論」なる運動論に源がある。すなわちそれは、資本に協力して、それが焼くパイ=儲けをできるだけ大きくすることによって、労働者の受け取る「分け前」は多くなるというもので、労使は、「生産において協力し分配において対立する」ものとされる。ということは、生産現場で展開される資本の技術革新には全面的に協力するということで、技術革新によって不可欠に変化する労働組織の変更や働き方の変更には反対しないどころか、積極的に賛成する。この結果、労働現場では資本主導の働かせ方が定着する。したがって、その働かせ方を制約する可能性のある法は、資本の自由な活動とそれに基づく経済発展にとって、邪魔な「足かせ」であって、排除されるべきであるとされる。

このような主張に基づいて、「働き方改革」が主張されているのである。したがって、それは、「働き方の改革」ではない。現実に展開されている「働き方に法を合わせる」ためのものである。だから、それは、労働者にとって、先に見たような重大な問題をはらんでおり、阻止されねばならないものなのである。

しかし、運動は、それのみを以て終わるものではない。本文中に、法を以て現実を変えようとする愚かさに言及した。法をいかに変え、それを以ていかに規制しようと、職場における仕事量、その処理の仕方について変えるのでなければ、労働時間は減少しない。本文に触れたように、労働時間管理における労働者の自主決定権が確保されなければ、労働時間のあいまい化が進む。今回の「働き方改革法案」への反対運動を通して、労働時間について、職場における労働者の自主管理権の確立に向けた闘いが進められねばならない。

また、冒頭に指摘したように、今回の「働き方改革」法案提出過程のずさんさが問題にされねばなるまい。それについての十分な議論もなされないまま、8法案一括提案という「荒技」が、平気で行われている。この法案形成過程の形骸化については、労働者代表であるはずの連合の責任は大きい。「反労働者性」をさらけ出して、「高度プロフェッショナル制度」に賛成しかけるという醜態を演じた基本には、現場の労働者の苦しみや事の重大性をきちんと認識し、労働時間問題に真摯に取り組もうとする姿勢に欠けていることがある。政府に対し、不断に異議を唱え続ける姿勢をもつことこそが、労働者の声を十分に尊重した審議に繋がることを認識して欲しいものである。

こんどう・あきお

1942年東京都生まれ。65年中央大学法学部法律学科卒業、70年同大学大学院法学研究科民事法(労働法)専攻博士課程単位取得退学、同大学法学部専任講師・助教授を経て90年教授。2013年同大学定年退職、名誉教授、現在に至る。一貫して労働基本権の保障の下で「労働者の自立」を確保しうる法理論の確立を目指す。主要著書に『労働法Ⅰ』(中央大学出版部)。

特集・総選挙 戦い済んで

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