連載●池明観日記─第3回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

2010年つづき
アメリカとロシアとわれわれ

日本のトヨタの車とホンダの車がアメリカで暴風雨にあっている。今まで数百万台が売れるまでアメリカは知らなかったというのであろうか。ホンダの車で一人の子どもが事故にあったという。こういうことをアメリカが特に問題にしたのは、日本の民主党政権が沖縄の基地問題などであまりにも自主的なことを主張したことがその根もとにあるのではなかろうかと考える。今までアメリカは韓国の現代史においてどれほど多く作用してきたことか。今、李明博政府は機会があるごとにアメリカとともに歩んで行くと言明している。

李明博はアメリカのテレビとのインタビューでアメリカと一致した北朝鮮に対する姿勢を発表した。ただちにアメリカの国務省は対北朝鮮問題においてアメリカは彼と見解をともにしていると発表したではないか。北朝鮮の核兵器の解体なしにはアメリカは北朝鮮と対話をなしえないし、もちろん彼らに援助を与えることはありえないといった。これが韓米の一致している対北朝鮮政策であるというのである。このことは北の崩壊を前提にしている政略であるといえよう。いまアメリカは北東アジア三国の中で韓国のみがもっとも信頼しうる国であると見なしていると思える。われわれもそのような状況を見すえながら国の将来を考えなければならないのではなかろうか。

アメリカの朝鮮半島に対する関係は1950年の朝鮮戦争前後に見られたアメリカの CIAが直接関与した政策から少しずついわゆる遠隔操作へと変化してきたといえるであろう。このことは韓国内の政権がどのような性格を持っているかに関係がなかった。アメリカは常に自分の国との関係を優先して考え、それから韓国国内における政治勢力の性格や国民の支持度などを考慮した。このような韓米関係をいったん認めた上でこの国の将来を考えなければなるまい。アメリカは韓国の政治状況に直接関与することはできるだけ避けようとしてきた。しかし韓国における対米関係のためには異常といえるほどの政治力を求めているといわねばなるまい。

北朝鮮は対米、対韓関係において常に固定した政略の上に立っているようである。一方では脅迫し、その一方で援助を求める。このようなやり方が今まで成功してきたといえるかもしれない。金大中時代には黄海では海上攻撃をしかけながら、その一方で援助を手にしたようにである。欺瞞的な政略を使っては、常に自らの勝利を謳歌するのである。このようなやり方でいつまで延命しうるというのであろうか。最高指導者はいつもその所在を隠している。今夜も彼はどこで休むのか知らない。まだこのような権力が地上に存在している。北朝鮮とは常識的な外交関係などではなく、原始的な暴力と関係することだと考えねばなるまい。

歴史とは関連する者を異にしながら変化するものである。変化しない固定した権力はますます悪化するものである。北の権力はもちろんそうであるが、朴正煕(パクチョンヒ)の権力もそうであった。しかし朴正煕の権力は反対者を完全にとりのぞくことはできなかった。抵抗の刃を収めれば許してやり、近寄れば受け入れた。われわれの場合にはアメリカがあり、アメリカに避けるかそこに滞留することができるという逃げ道があった。それがどれほど幸いしたか知れない。私は日本に避けることができたのだが。(2010年1月30日)

『ジャン・クリストフ』の終わりでは主人公には次の世代との間に現れた断絶が示されている。その宣言はほんとうに厳しいものであった。こういうことが西欧的伝統というものであるかもしれない。第一次世界大戦を前にした平和宣言としてロマン・ロランは戦争を当たり前としてきた世代に対してそのように断絶を宣言しようとしたのであろうか。われわれの場合でいえば1945年の8・15(解放)そして1950年の6・25(朝鮮戦争)を体験した世代とそうでない今の世代との間における隔たりというものを想定していたといえるのかもしれない。

“新しい法則に基づいて社会は生き返るであろう”。ヨーロッパの恐ろしい戦争を予想しながらもロマン・ロランはこのように考えた。国家主義による大衝突を予想しながらも“それは時とともに流れてゆくであろう”といった。1901年に彼はつぎのように記録した。

“敵もなくただ悲惨な人びとがいるだけである。そして永続しうる唯一の幸福はたがいに理解し愛しあうこと―知力の愛―がこのような人生の前と後、二つの深渕の間でわれわれの暗い夜を照らしてくれる唯一の光明である。”

このような第一次大戦以前のロマン・ロランの思想がようやく第二次大戦後に至って‘ヨーロッパの父’ジャン・モネの思想と実践において実りを見ることができたということであろう。このことを北東アジアにおいてわれわれはどのように理解すべきであろうかと考えざるをえない。

どうしてであろうか、この頃は過ちの多かった過ぎ去った日々のことがしきりに思い出されてならない。その時、私はどうしてそのようにしたのか。なんでもないことに怒りを発してひとに悲しい思いをさせたのか。それだけではあるまい。今は人間に対してもう少し寛大になったといえるのであろうか。人を敵、味方などと振り分けたくない。この前、牛肉輸入反対を唱えるとき、李明博退陣というピケットが多く現れていた。民主的選挙で勝利したのだから政策に対する批判はありえても、あのように退陣を叫ぶならば、選挙で敗北しながら暴力で権力を奪回するというのであろうか。集まってきた若い人びとを眺めながら私は考え込んだのであった。 

今度アメリカに来てだいぶ新しい感じを抱くようになった。黒人大統領が可能になった。今日においても黒人であるがために感じなければならない数多くの困難があるであろう。しかしアメリカの歴史において南北戦争から150年近く過ぎて黒人大統領を選出するまでにアメリカは変わったといわざるをえない。2、3年前に南部の町を歩きながらかつてのアメリカが残した罪悪とでもいおうか、そういったものの痕跡というか、そういうものをいろいろ感じたが、今日この程度に人種の壁を乗り越えた国がこのアメリカのほかにどこにあるといえるのか。やはりアメリカは世界史の先頭を行っていると感じざるをえない。

1967年に初めてアメリカに来た時はアメリカの終末すら感じたことを思い出す。ロシアにおける人種差別のあおりで韓国人の若い人が殺害されたという今日のニュースに接して胸の痛む思いをしながら、共産主義の統治はやはりそういったロシアを克服することができなかったのだと思わざるをえなかった。かえってそういった体制を強化したようにも思われる。やはり民主主義でなくてはそういった峠を越えることが難しいのではなかろうか。南の方、韓国ではいつかその峠を越えることが可能になるかもしれない。北の方はいままで異なるものであれば絶えず排除してきた社会ではないか。南では軍事政権下においても、排除されながらも、生き残ることができる余地があった。黙って生活してさえいれば抹殺せずに生き残るようにしてくれたといおうか。軍事政権下では人びとのいのちが奪われ国民が絶望に落とし入れられたとしても、そこではそれを避けて生き残ることができた。海外に逃れることもできた。そのように生き残ることができたのには、アメリカの影響が大きく作用したことを否むことができない。アメリカの圧力が軍事勢力の暴力的独占を制限した。海外へと向かう道すらほとんど閉ざされていた日本統治の時代を思う。今日の北朝鮮にはそのような逃避の選択をする余地すらまったくないではないか。

このように歩んできたのが朝鮮半島における南北であり、体制を少しも変化させまいとしてますます強化してきたのが北ではないか。そこに残されたのは良心のない、たけだけしい、常識の世界とはよほどかけ離れた勢力ではないかと考えられてならない。南側の専制体制はそれほどまでには人びとを殺害し追放することができなかった。もちろん、それはあの軍部勢力の善意によってではない。国民の力とアメリカの影響力によってであるといわねばなるまい。このように考えるのは老年に至っているせいであろうか、ついに民主化された国に暮らすようになったからであろうか。

実際韓国の民主化運動というのはアメリカに期待しながら展開した国民的抵抗であったといわねばならない。私には1945年の8・15直後、アメリカを盾にして支配してきたかつての親日勢力とそれに抵抗した左派勢力という悲しい分裂の図式が残した思想史的痕跡が今でも続いていると思えてならない。日本統治下で教育を受けた人びとは、南では生き残ることができた。日本統治下の下級官吏の多くが解放後南において登用され昇進するようになった。このことは今日の分裂した状況の根源としてもっと深く掘り下げて考えてみなければなるまい。このように韓国の民主化または民主主義の起源と発展についてたどってみるべきであると考える。(2010年2月22日)

上海からソウルへ?

わが国の南北問題というのは実に世界史的な問題ではなかろうかと考えざるをえない。8・15以降あれほど多くの人びとが北から南の韓国へと越南の道を選んだ時、北側の当局は一方ではこれらの人びとを政策的に放任しておくといわれた。政治的な傾向が北にとって都合が悪いからといってその多くの人びとをすべて牢屋に送ったり処刑したりすることなどできることではなかった。食糧難の時代であるから多くの人びとが南に行くとすればこれ幸いと思った。南側に多くの人が移動すればそれだけ北側にとっては有利であると判断したという。500万もの人びとが南へと移動してきたといわれた。反体制の人びとを取り除くとともに食糧を節約することができるという政策であった。こうして北は強力な団結をなし、混乱に陥っている南を乗り越えるといういわゆる南侵政策を取ったというのである。

同じような問題が今日にもありうるかもしれない。北から‘思想の悪い’一部を取り除き少しでも食糧難を緩和するために北を逃れようとする脱北者を大目に見るかと思うと、彼らからドルでいわゆる‘脱北税’というものをしぼり取る。その一方で脱北を試みようとする者を逮捕しては苦しめ処刑することをも辞さない。こうして不満を抱いている者は取り除き‘忠誠心’のある者を残す。しかしこのようなやり方でどうして正しい民族社会などありうるといえようか。それは共産主義と称する恐ろしい反人間的な道であるという考えを私はいなむことができない。

北において生き残る人間とは忠誠心のある人間というよりは、およそ人間的な力など失ってしまっている非人間的な人びとではなかろうかという思いがしてならない。自己を主張することを放棄した理性を失った屈従者、変節者や裏切った人びと。実はこのような道を韓国も歩むようになったかもしれない。軍部独裁者たちはそのような道へとつき進もうとした。南ではそれが成功できなかったのは、南が自由社会に向かって開かれていたからであった。国内では弾圧を強めていても、海外からの圧力と民衆の抵抗によって、獄門を開けて反体制的な人びとを釈放してやらなければならなかった。権力に協力するといえば登用することもした。永久的な反体制人士というのは存在しなかったといわねばなるまい。そのために北朝鮮がますます閉鎖的な社会へと悪化一路の道を行ったとすれば、南の韓国はますます開放された社会、民主社会へと発展してきた。南では考えを異にする多くの人びとが生きて行くことのできる社会になることができた。アメリカが、韓国がこのような社会へと成長することを可能にするのに援助を与えてくれたことを私は決して過小評価してはならないと思う。アメリカ自体もそのような社会へと漸進的に成長してきたといえるのではなかろうか。

われわれは今や国民を恐れる政権という時代に生きている。日本の今の民主政権の場合もそうであり、韓国の李明博政権の場合もそうであると考える。国民を、市民を恐れる政権である。そのような意味においても、戦争をなしえない時代の政治権力といわねばならない。南北を比較してみれば、南の社会は北の20倍以上の経済規模という比較にならないほど異なっている社会である。南は北とは生活方式も発想も異にしている社会であるといわねばならないのではなかろうか。一方は国民を収容所に監禁し抑圧し、国民を一歩も国外へ踏み出させない社会であるとすれば、もう一方は民族すら超えて行くといえるほど外国の人びとを受け入れ、自らも外に出る社会といわなければなるまい。

外国に出るという意味ではわれわれは日本を引き離しているといえるかもしれない。それは日本統治下の時代からこの民族が受けついで来た傾向といえようか。しかし外に出ても、自分の国を忘却することができないようである。自分の生活のために外を志向しながらも心は内を志向しているといえようか。このような意味でこの民族が体験している世界史的生活の問題を検討しなければならないのかもしれない。何よりもわれわれが経験している南北に分断された祖国という体験そのものが世界史的意味を担っていることではないか。

世界はそのことについてそのような形では注目していないし、われわれも特に自覚していないようである。(2010年2月25日)

北を中心にした核論争が絶えない。まだまだ武力で問題を解決しうるという発想であろうか。ここでわれわれは共産主義を主張する社会が転落してきた人類史的悲劇を垣間見るといえるのではなかろうか。人類の痛みからの救援を考えながら尽きることのない苦難を耐え抜いた思想であるとでもいおうか。日本の経済学者大塚金之助の和歌を読みながらいっそうそのようなことを考えた。彼は恐ろしい孤独にさいなまれ、愛する家族から引き裂かれていた。

いたたまれず
廊下をうろつく老いた母に
手錠編笠でぱったり出会う。

人間を
人間として扱えず、
こころで泣くという看守もあった。

しかし今は戦争を起こしえない時代ではないか。この国際的な時代にいかにして核を使いうると考えることができようか。核が国際平和をもたらしてくれたというアイロニカルな時代である。それにもかかわらずわれわれはこのようにいおうとはしないのであろう。しかしそれは歴史的には厳然たる事実ではないか。核戦争は避けてゲリラ戦争が続いている。このような時代であるがためにわが国でもアフガニスタンに派兵するということが、それほど困難ではないのか。戦争という大量虐殺は今やわれわれには耐え難いのである。そのような反民主主義の時代は去りつつあるのではなかろうかと思う。

このような時代においてわれわれが求める東洋平和と文化の共有とは可能であろうか。近代以前には東アジアにおいてそのような関係が可能であったではないか。ヨーロッパもそのような伝統を求めてきた。カントがドイツのカントでありながらもヨーロッパのカントであったようにである。歴史的にその意味においてパリの役割は大きなものであったと考えられる。東洋では上海がそのような可能性を持っていたといえようか。しかしその頃はほとんど西欧の植民地的都市であったというべきではなかったか。これからの東アジアにおけるソウルの意味を考えてみたくなる。(2010年2月28日)

韓国の文学、日本の文学

韓国の詩と日本の詩歌とを比較して論じてみたいと思いながら、これがいかに困難な作業であることかと、今日『現代日本文学全集』を見て驚かざるをえなかった。日本の詩歌は和歌、俳句、詩などと種類も多様であるが、量的にも韓国の数十倍に達するといえば言いすぎだといわれようか。日本の詩は西欧の文学の変遷の歴史をそのまま追っていた。新体詩から象徴詩へ、新抒情派から社会主義詩へ、そして超現実派などと流れてきた。ヨーロッパ文学史の流れを追ったといおうか。

韓国の場合はそのようには行かなかった。日本に比べると流派無き詩の歴史といわねばなるまい。その時、その時われわれの情操を謳い上げた。これは韓国人が外の文明や文化に対して抱いていた姿勢からきたといえるかもしれない。今日においても日本の歌謡が日本の社会の発展と歩みを共にしてきたといえば、韓国の歌謡は昨日も今日も同じような調子とことばを歌い続けているように思えてならない。量的に日本より少ないからそのように流派と類型がはっきりしないともいえるかもしれない。しかしどうもそれだけが理由ではないような気がする。日本の社会は武の社会であった時代から流れて来た伝統によってその時代と外の世界に対してより一見敏感であり、韓国では儒教的伝統のせいで変化を否定する生き方がしみこんでいたともいえるかもしれないが。

それにもかかわらず実際において日本人は時代的変化に対して強い拒否感を心の底に抱いていたのではなかろうか。強く自分を守ろうとする。そのために外の世界に対してとても敏感である。対内的には武士的な対立の姿勢から他者に対して強い警戒心を抱いていたといえよう。それに比較して韓国人は自分に被害がおよぶまで他者に対して無感覚といおうか、天下泰平の姿勢で開放的であったといえるのではなかろうか。日本人は友好的であるが、時がくればまたたく間に敵対的に変わる。日本人は昨日は親外勢的であっても、今日は侵略的になりえた。友好と敵対という対立極がはっきりしていて、時代的にもくっきりと現れていたように思える。私は日本が島国であり武士的な伝統を保ってきてそれがその社会に精神的遺産として受けつがれてきていると思っている。(2010年3月1日)

私自身に関することなのでとかく言いにくいのであるが、早稲田の堀真清教授の今度の本『一亡命者の記録―池明観のこと』はいろんな意味において歴史的な意味をおびているものと考える。日本人が韓国人の伝記を書くというのはほとんど側外的であったためにそれは、先駆者であったといえよう。日韓関係の将来を考えながら私は感謝している。日本の植民地支配を西欧のそれと比較して考えざるをえない。そのころの本国日本は徹底した反民主主義社会であった。そのためにロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』のような作品は日本では不可能であったに違いない。ロマン・ロランの場合もフランスを後にしてスイスに移り住み、この作品もフランスでは人気がなかったといわれるのではないか。

キップリングの小説、デュエルの『愛人』、パール・バックの『大地』、ニム・ウェルズの『アリランの歌』などについて考えざるをえない。このような作品は日本の場合とは違ってその本国に民主主義が生きていたから可能であったといえよう。また韓国の場合は島山(安昌浩<アンチャンホ>、1878-1938年、愛国者)も(李光沫<イグァンス>、1892-1950、朝鮮戦争で北に拉致される)もあのような悲劇的な運命をたどらざるをえなかったが、インドではガンジーもネールも存在しえたではないか。植民地経営と本国の民主主義との相関関係を考えざるをえない。そのような意味でも堀の著作に対しては思想史的な位置づけを考えてもいいのではなかろうか。

日本文学は遊びの文学であって中国と韓国は素材としてすらほとんど彼らの関心の外にあったといわねばなるまい。これらの国に出あうことがあっても、それはセンチメンタルに扱われるか、非政治的に描かれがちであった。権力からほど遠い文学であったのだ。そのような日本文学が戦争末期においては日本の侵略的政治に参与せざるをえなくなった。戦争の時代になると政治は武士的であり、文芸は遊びであり疎外された領域であるという伝統的な関係がくずれた。それ以前において、文芸はいわばその社会の息抜きの領域であり、休みの世界であった。

朝鮮も中国も彼らの遊びの文学においては関心の外にあった。やがて朝鮮は彼らの植民地となり、中国は日本の敵となった。そのような過程は韓国文学がたどらなければならなかった道とはあまりにも異なっていた。韓国においては特に近代に入っては文学も国民啓蒙のための新しい時代をいろどるメディアであった。そのために日本統治下における韓国文学の受難はいっそう避けられないことになったといえる。それをその時代の日本の文学、例をあげれば谷崎潤一郎の文学と比較すれば、その著しい違いに驚かざるをえない。彼の作品『細雪』を読みながら私はその対照に深く印象づけられた。(2010年5月14日)

島崎藤村の『夜明け前』に‘儒仏の道がこの国に渡ってくる以前混濁のなかった頃’という本居宣長の思想を伝えるところがある。その国学の思想が国粋主義的革命思想となる。しかしそれは反動の思想となり、体制の学となるのではないか。

韓国の思想史における古代称賛の思想は申采浩(シンチェホ、1880年―1936年)にも崔南善(チェナムソン、1890年―1957年)にも色濃く表れていた。それが申采浩においては日本の支配に対する抵抗であったが、崔南善の場合はどうであっただろうか。崔南善の場合は最初は日韓共通の古代を語りながら、日本に対する韓国の優位といおうか先進性を語ろうとしたが、だんだんと日韓同祖論に傾いたのではなかったか。彼は終戦後になって親日派を裁く法廷に立たされて、それは日本統治の下でわれわれを守ろうとした努力の現れであったといった。崔の言動を私は亡命人としての申采浩の民族主義と対照をなす日本統治下にある国内の民族主義的立場を示すものであると解釈した。

しかし終戦後は歴史以前の神話時代に根拠を置く古代賛美論は崩れて行かざるをえなかった。祖国解放とは未来志向的なものであったからであった。そしてやがては日中韓における北東アジア平和論へと進んで行かねばならなかった。このように日中韓のナショナリズムの推移を比較して検討しなければならないのではなかろうかと思っている。(2010年6月14日)

島崎が近代日本の状況を西欧の外交官たちがどのようにながめたかを伝えたことばにつぎのようなものがある。

“前者(ヨーロッパ文明)は虚像を一般的に排斥するが、後者(東洋文明)は公々然と一般的にそれを承認する。日本人や支那人においてはもっとも際立った虚言が発覚してもこれを恥ずかしいこととは考えない。それほど信用が行われ難いこの社会のなかでどのようにして人生において多くの関係が維持されるのかととても理解し難いという人もいる。”

ここにおいてマックス・ウェーバーのことを考えるようになる。彼は資本主義社会の倫理として信用と正直をあげた。そのような徳目が資本主義の下で守られたといえるが、そのことはキリスト教と関係があるといわねばならない。島崎も伝統的な社会における虚偽を指摘し正直をいかに強調したことか。彼がキリスト教に接近するようになったのは、それと関係があったのではないか。彼はそれにもかかわらず宣教師の下で働くことを肯じなかったのをわれわれは思い起こさなければなるまい。(2010年6月18日)

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)

池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会

連載を開始している「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。

今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。前号から連載記事として公開しております。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。

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