コラム/ある視角

唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと

ジャーナリスト 永澄 憲史

昨年の大みそかの晩、観るでもなく某「国営放送」の「紅白」にチャンネルを合わせていた。うつらうつらしているうちに、エンディングを迎えていたようで「蛍の光」が流れていた。酔った頭でふと、この歌のことに思いを巡らせた。

デパートやパチンコ店などの閉店時のメロディーとしてもおなじみの「蛍の光」の原曲はスコットランド民謡だ。国文学者で歌人の稲垣千頴(いながき ちかい)(1845-1913)が詞を手掛け、いわゆる学校唱歌として、1882(明治15)年に出た日本最初の音楽教科書「小学唱歌集 初編」に収録された。今はほとんど忘れられているが、歌詞は当時、7月に行われていた小学校の卒業式に合わせており、最初の曲名は和歌の歌題(季題)に準じて「蛍」だった。卒業式が3月に行われるようになった1892(明治25)年以降も、学校のこの一大イベントで歌われ続け、現在に至っている。

忘れられた、といえば、「蛍の光」はもともと4番まであった。「ほたるのひかり、まどのゆき 書(ふみ)よむつき日、かさねつつ いつしか年も、すぎのとを あけてぞけさは、わかれゆく」(1番)、「とまるもゆくも、かぎりとて かたみにおもう、ちよろずの こころのはしを、ひとことに さきくとばかり、うたうなり」(2番)という耳慣れたフレーズのあと、「つくし(筑紫)のきわみ、みちのおく うみやまとおく、へだつとも そのまごごろは、へだてなく ひとつにつくせ、くにのため」(3番)、「千島のおくも、おきなわも やしま(八洲)のうちの、まもりなり いたらんくにに、いさおしく つとめよわがせ、つつがなく」(4番)と続く。敗戦後、GHQの指導などにより3、4番は封印されたが、字面を追うだけで明治国家の意思を具現化し、卒業式など学校での斉唱を通して子どもたちに刷り込もうとしていたことが分かる。正直に告白すると、河合塾講師(古文)の中西光雄さんが4年前に著した『「蛍の光」と稲垣千頴』(ぎょうせい)を読むまで、私も3、4番の存在、そしてこうした経緯をまったく知らなかった。

中西さんのこの本からはほかにもいろいろ示唆を受けた。

三番で旧来の日本の版図を、四番で最近植民地化した地域を含む帝国日本の版図を遠近法で示そうという意図が見える。(中略)千島・樺太交換条約によって、北千島全域が日本の領土になったのは、一八七五(明治八)年のことである。また、いわゆる琉球処分によって、琉球藩を日本に強引に編入し沖縄県としたのは一八七九(明治十二)年のことであった。稲垣が、音楽取調掛に任命され、唱歌の作詞に着手したのは 一八八〇(明治十三)年のことだから、実に血なまぐさい政治的ニュースを唱歌の歌詞に詠み込んだことになる。

のは明白であろうし、

やがて「蛍の光」四番出だしの歌詞は、台湾で歌われるべく「千島のはても台湾も」と、日本の植民地支配の実態にふさわしい歌詞に改変され、一九〇五(明治三十八)年のポーツマス条約で北緯五十度以南の樺太が日本領となった後に「台湾のはても樺太も」とさらに改変された。これは、稲垣千頴が、自らの国境という概念のあいまいさにためらいながらも、原詩の中に仕組んだ帝国主義への指向性がひとつの表現として帰結を迎えたということである。

というその後の流れも、必然であったろう。付言すれば、沖縄県糸満市にある沖縄県平和祈念資料館では敗戦前の帝国主義の負の遺産として「蛍の光」の歌詞を常設展示、紹介している。このことも中西さんの本で教えられた。

私自身、日本の四季を詠い込んだ抒情性とか、ふるさとや懐かしさ、印象に残る美しいメロディーラインといった面ばかりを「唱歌」から連想しがちだったが、次第に背後に控えている国家の存在が気になりだした。昨年5月まで在籍した新聞社で、月に1回、朝刊1面のコラムを担当していたこともあり、2012年6月7日付の同欄に、「蛍の光」の4番について書き、中西さんには一昨年10月から昨年9月まで、朝刊の教育面用に「唱歌の社会史」という連載記事の執筆をお願いした(月1回掲載)。そして連載終了後の昨年11月には知人らの協力を得て、中西さんのほか、京都大学人文科学研究所の山室信一さん(法政思想連鎖史)、詩人の河津聖恵さんにパネリストになってもらい、「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」と銘打った、コンサートを兼ねた討論会を京都市内で催しもした。

「蛍の光」にも似たイデオロギーを内在した唱歌をもう1曲紹介しよう。中西さんが連載記事で取り上げ、今もよく歌われる「われは海の子」だ。この歌が7番まであり、7番の歌詞は「いで大船を乗出して、我は拾わん海の富 いで軍艦に乗組みて、我は護らん海の国」となっている。「一少年の成長を、近代国家創出のスローガン「富国強兵」を、海洋権益の獲得とその守備という文脈で、丁寧に具象化した歌である」(中西さん)ことは、これまたはっきりしていよう。

こうした唱歌の存在を私たちはどう位置付け、そこからどういう歴史の教訓を汲み取っていったらいいのだろうか。「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」での議論には多くのヒントがあった。

山室さんは「近代国家では、国民が国境の問題とともに、その国が(総体として)どのような自然、あるいは風土を持っているのか、を内面化させる必要がある。それを歌い込んだのが唱歌である」と、その性格を明確に定義した。

河津さんは済州島育ちの在日コリアンの詩人・金時鐘(キム シジョン)さん(1929年生まれ)の『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)から、

植民地は私に日本のやさしい歌としてやってきました。けっして過酷な物理的収奪ではなくて、親しみやすい小学唱歌や童謡、抒情歌といわれるなつかしい歌であったり、むさぼり読んだ近代抒情詩の口の端にのぼりやすいリズムとなって、沁み入るように私の中に籠もってきました。これ皆が定形韻律のやさしい歌でありました。統治する側の驕りをもたない歌が、言葉の機能の響き性(音韻性)としてすっかり体に居着いてしまったのです。

あり余る朝鮮の風土のなかで、頬もめげよとばかり声はりあげて唄った歌が、そのまま私がかかえている私の日本です。いやそれが私の植民地なのです。今もって私は「おぼろ月夜」に感情をゆすぶられます。瞼がおぼろにもなります。そのような歌でしか振り返れない少年期をみじめとも思い、かぎりなくいとおしいとも思います。

という2カ所を読み上げ、「結局、植民地統治というのは、すごくあくどくて、厳しくて、残酷だという話も聞きますけれども、当事者にとってみれば、そうでもなかった、と。もちろん過酷な場面もいろいろ見られたみたいですけれども、やはり優しさとか、それこそ懐かしさというような感情を持って、植民地の少年たちを皇民化していったっていうのが、非常に私、これを読んでショックでした」と続けた。

よく考えてみると、こうした内面化のプロセスは、本土の子どもたちにも当てはまったのではないか。北から南まで地方地方によって風土が大きく違うにもかかわらず、一体のものとして観念的で美しい「日本」を描き、そこにアイデンティティーを感じさせるように仕向ける。その辺に唱歌の「狡猾さ」というか、「危うさ」がありそうだ。そういえば、唱歌の持つイデオロギーは子どもを通して親にも深く浸透していった、という。いずれにしろ、河津さんが討論の最後に指摘したが、過去の歴史を知る、そして自身の内なるナショナリズムときっちり向き合うことが大切になってきそうだ。

宣伝めいて恐縮ですが、「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」での議論などをまとめた本が今夏までに上梓される予定です。お読みいただければ幸いです。

ながすみ・けんじ

1955年、三重県伊勢市生まれ。80年、同志社大学文学部卒業。同年、京都新聞社入社。地方支局、東京支社、文化部などで取材に当たる。2015年5月、定年退職。03年から05年まで京都新聞夕刊に連載した「陶然自楽 青木正児の世界」を大幅な加筆の上、本年中に出版の予定。

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